話がそれましたが、清少納言は「どうせあなたの言い訳でしょう」と言いたかったのです。それに対して行成は「関は関でも、あなたに逢いたい逢坂の関ですよ」と弁解します。
清少納言のこの一句はその行成の歌に対して返した歌だったのです。「鶏の鳴き真似でごまかそうとも、この逢坂の関は絶対開きませんよ(あなたには絶対逢ってあげませんよ)」という意味です。前の夜に話の途中で宮中の用事を言い訳に途中で清少納言を置いて帰ってしまった行成に対してちょっと怒っているのかも知れません。
即座にこれだけの教養を盛り込んだ歌を返すとは、さすが清少納言といったところです。このほんの一句からずば抜けた知性を感じさせますが、男の立場から言えばさすがの時の大納言もタジタジではないでしょうか。
一条天皇の時代は藤原道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権力が最盛期に達し、摂関政治の栄華の極みに到達した時代です。
この藤原道隆こそが一条天皇の中宮・定子の父であり、影の実力者であり当時の最高権力者です。そのような宮廷が最高に華やかなりしころにその中心に一番近いところで生きた清少納言。彼女ほどの教養と女性としての自信がなければ時の大納言・行成にあのような一句を詠むようなことはなかったでしょう。
最後に逢坂関は、東海道で京都への東からの入り口とされ古くから交通の要所だったそうです。8世紀の終わりにはすでに関所が置かれていたと伝わっています。
現在、逢坂の関の跡は滋賀県大津市にあり、京阪電車京津線大谷駅下車2分ほどのところにあります。清少納言が詠んだこの有名な歌は歌碑に刻まれていて彼女が静かに眠る近くにある泉涌寺(せんにゅうじ)に建てられています。