ヨーロッパで流行した漆工芸
18世紀のヨーロッパでは、日本の漆器が一大ブームとなり、漆器が「ジャパン」と呼ばれた。その牽引役となったのがオーストリアの女帝マリア・テレジアだった。テレジアは漆器の艶のある黒色に魅せられて、熱狂的なコレクターとなった。ウィーンのシェーンブルン宮殿には、中国から呼び寄せた漆職人に黒い漆のパネルで一面を飾った「漆の間」を作り、財産を注ぎ込んで日本の蒔絵などの漆器を集めた。
「私にとって世の中のすべて。ダイヤモンドさえ、どうでもいい。ただふたつの漆とタペストリーだけあれば満足です」とテレジアは手紙にしたためている。
テレジアの娘の一人がフランスのルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットである。テレジアはわざわざ金粉を施した漆のワイングラスなどを日本に注文しては、マリー・アントワネットに送り続けた。彼女は母親から送られた漆器を大切にし、断頭台の露と消える4年前に、漆器をすべて宮殿から運び出して守っている。
会津は江戸時代後期から漆器の海外輸出で知られており、会津藩は現在価値で数億円規模の外貨を獲得していたと伝えられている。マリー・アントワネットの注文を受けたのは会津藩かもしれない。
18世紀には日本の漆を取り入れた新しい装飾文化がヨーロッパで花開いた。フランスの家具職人がヨーロッパ調の家具に、日本から輸入した蒔絵などをはめ込む技法を流行させた。蒔絵以外の部分は、模造の漆がよく用いられた。ニスに様々な薬品をまぜて作ったものだが、日本の本物の漆には遠く及ばないものだった。
マリー・アントワネットが用いた文机の天板には3枚の蒔絵が使われている。うち2枚は日本製の本物で、数百年たっても黒の塗膜がしっかりしていて変わらない美しさを見せているが、代用品の1枚は漆の色があせ、塗膜がはがれてしまっている。
「漆の一滴は汗の一滴」
漆は「ウルシ」の木の樹液を原料とする。ウルシ科で漆を採取できる樹木は日本、朝鮮、中国、インドネシア半島など、東アジア地域にしか自生せず、漆工芸が東洋独自の工芸として発達した原因となっている。日本産のウルシの樹液が最上級とされ、国内の工芸品の仕上げのほとんどはこれを用いるが、樹木の不足などで現在では日本で使われる漆液の大半が中国からの輸入品である。
ウルシの木は10年ほどで高さ20メートル、幹の周囲25~30センチの成木に育つ。その表面に傷をつけて、4、5日経つと、指の先ほどの樹液がたまる。それをヘラで掻き取り、また少しずらした所に傷をつける。昔から「漆の一滴は汗の一滴」と言われるように、非常に根気のいる作業である。
傷は浅すぎても深すぎてもだめで、熟練を要する。漆掻き職人は「一年で20貫目(約75キロ)集められると一人前」とされた。ウルシの木は一年で漆液を採りきって伐採され、その切り株から新しい芽が出て育つまで10年間大切に育てられる。
「漆は生き物なので、人のおもいどおりにはならない」
ウルシの木から採取した漆液を精製する過程も根気と熟練を要する。まず綿をちぎって入れて、加熱・濾過し、綿と共にゴミや木の皮を取り出す。次に約2時間ゆっくりかきまぜると、とろっとした柔らかさが出る。水分と油分が0.01ミリほどの均一な粒になって、よく混ざり合うのである。
それから40度前後の温度でゆっくり暖めながら、水分を約30パーセントから3~4パーセントまで徐々に飛ばしていく。この時に55度を超えると、あとで漆を固める役割を果たすラッカーゼ酵素が変質して働かなくなってしまうため、職人は神経を集中し、勘に頼りながら温度を保たねばならない。
漆特有の深みのある黒色を出すためには、釣り針作りなどでできた水酸化鉄を入れて、一晩寝かせると化学変化によって漆液が「漆黒」になる。ふたたび綿をちぎって入れて、水酸化鉄を付着させて取り除く。できあがった漆は、黒い輝きと鏡のような艶やかさをたたえている。漆の精製職人である会津若松の武藤勝彦さんはこう言う。
漆は生き物なので、生かさず殺さず、つくっていく。それでも人のおもいどおりにはならない。職人は生きたり死んだりする気まぐれな相棒と、じっくり腰をすえて、付き合わなければならない。