ベトナム独立運動を無償で支えた日本人医師・浅羽佐喜太郎の義挙

 

ドンズー運動の終焉

ファンはドンズー運動を拡大するために、檄を書いては、母国に一時帰国する留学生に持たせて、配布させた。『全国父老に敬告する』では学生の留学費用の援助を呼びかけ、『海外血書』では、「東洋の大国日本においては仁義あふれる対応」をしてもらえるのに、祖国ベトナムにおいては牛馬鶏豚の家畜類と同類に扱われていると、フランスの統治を厳しく攻撃した。

フランス総督府はこれらの印刷物を入手し、証拠物件として日本政府に抗議をしてきた。しかし日本政府は「該当するようなベトナム人はいない」と突っぱねた。こういう時のために、ベトナム人留学生の国籍を清国としていたのである。

明治41(1908)年、フランス総督府は一計を案じて、ファンに「有志から集めた大金を渡したいので、受取の者を送られたい」とのニセの手紙を出した。2人の留学生が金を受け取りに帰国した所を逮捕され、機密書類は没収され、2人は3年の禁固刑を言い渡された。

ここに至っては、日本政府もフランス総督府の要求を断り切れなくなり、学生たちに直ちに帰国する旨の手紙を自宅宛に書くことを要求し、これを拒む者はフランス大使館に引き渡すと申し渡した。

フランス総督府は、逮捕していた留学生の父兄に「お前が帰国してくれれば、私たち家族は解放されて無罪となり、お前の罪も問われないから」と返事を書かせた。多くの親思いのベトナム留学生たちがその報せを受けて、次々と帰国していった。

フランス総督府はファンとクオン・デ侯の逮捕・引き渡しも要求したが、日本政府はこちらは断固拒否した。大隈と犬養の強い反対があったようだ。しかし、帰国旅費を工面できない大勢の留学生を見て、ファンは途方に暮れた。

犬養はファンに1年くらい隠れていればかならず我々が元通りにすると約束し、日本郵船から「横浜-香港」間の乗船券100枚もの寄付を取り付けてくれた。さらに自身のポケットマネーで2,000円(現在価値で約5,000万円)を渡した。

これで多くの留学生は帰国できたが、なおもファンと志を共にして、秘かに日本に留まった者が百数十名いた。彼らは早稲田大学や東京帝国大学などを卒業し、後に独立戦争の将校や地域の指導者、事業家として活躍するのである。

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