ベトナム独立運動を無償で支えた日本人医師・浅羽佐喜太郎の義挙

 

浅羽佐喜太郎の義挙

この前年、留学生の一人が街頭で行き倒れになっているのを、通りがかりの人が見つけ、応急手当をしたうえに、かなりの金額を手渡して、名も告げずに立ち去った、という新聞報道があった。この紳士が浅羽佐喜太郎であり、助けられた留学生グエン・タイ・バットは、この縁で浅羽家に書生として住み込み、同文書院に通った。

グエンはファンの窮状を知って、浅羽に金銭的援助を求めては、と勧めた。ファンは浅羽には来日以来、大勢の学生がお世話になっているのに、これ以上、多額の援助を受けるのは忍びないと、少額の援助を申し込む手紙を書いた。

ところが、その手紙を受けとった浅羽は家中の金をかき集めてグエンを通じてファンに渡した。1,700円(現在価値で約4,000万円以上)の大金だった。浅羽はかねてから医学の研究にドイツ留学を考えており、そのための貯えを渡したようだ。

ファンはこの義挙に驚き、感涙にむせんだ。そしてこの資金を使って、独立のためのパンフレット作成や、活動費、旅費などに充てた。しかし、明治42(1909)年、ついに日本政府はクオン・デ侯とファンに国外退去命令を受けた。

浅羽佐喜太郎の顕彰碑

その後、ファンは大隅の紹介で、タイの王室の支援を受けてバンコク郊外に農場を作り、留学生たちを呼び集めて、独立運動の拠点とした。さらに1912年の孫文による辛亥革命の成功に刺激を受けて、在中国のベトナム人を集めてベトナム革命軍を組織するが、袁世凱が権力を握ると逮捕されて、4年間も監禁された。

その後、ベトナムに戻ったファンはしばらく積極的な活動は控え、多くの著書を著した。1918(大正7)年には秘密裏に日本を訪れた。日本に残留している留学生たちと情報交換し、また大隈、犬養と会って、今後の活動の助言を受けることが目的だった。さらに浅羽佐喜太郎へのお礼に向かったが浅羽はすでに亡くなっていた

ファンは驚き悲嘆にくれたが、浅羽から受けた大恩を思うと、このままでは帰るに帰れないと、浅羽を顕彰する記念碑の建立を思い立つ。しかし、資金が足りない。村長の岡本節太郎に挨拶に立ち寄って顕彰碑の話をすると、村長は大いに感激して、費用の不足分は村民で運搬や据え付けなどをやって、なんとか実現しようと皆に訴えた。

こうして、わずか1週間後には高さ2.7メートルの立派な石碑が建てられた碑文はファンが次の内容の漢文を書いた

われらは国難(べトナム独立運動)のため扶桑(ふそう、日本)に亡命した。公は我らの志を憐あわれんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫(そうぼう)たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。
(同上)

1925年、フランス官憲に逮捕されたファンは終身刑の判決を受けたが、日本で学んだ留学生を先頭に、学生や市民が総督府、裁判所、刑務所を幾重にも囲んで、減刑を求めた。その凄まじいエネルギーを恐れた総督は、「今後は活動しない」という条件で釈放し、ファンはその後フエで軟禁生活を送った

1940年10月25日、ファン・ボイ・チャウは75歳の生涯を閉じた。その1ヶ月前に日本軍がベトナム北部に進駐し、ベトナム独立の歴史は新たなページに入っていた。

文責:伊勢雅臣

image by: 浅羽ベトナム会FB

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【著者】 伊勢雅臣 【発行周期】 週刊

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