ベトナム独立運動を無償で支えた日本人医師・浅羽佐喜太郎の義挙

 

東遊(ドンズー、日本に学べ)運動の発端

言葉も分からず、知人とていないファンを世話したのが医師・浅羽佐喜太郎だった。浅羽邸の近くに大隈重信(おおくま・しげのぶ)の別邸があり、浅羽はファンを紹介したようだ。大隈はすでに日本初の政党内閣を組閣した元勲であり、この時点では野党・憲政本党の党首で、腹心として犬養毅(いぬかい・つよし)がいた。

浅羽とともに、大隈・犬養と会ったファンは筆談で革命への援助を要請した。しかし、犬養は「日本政府が武力をもって他国の革命運動に参加することは国際法上不可能であるが、政党としてなら我々は貴下の計画を支援する用意がある」と答えた。そして大隈はこう提案した。

愛国の青少年の海外脱出の勇気とこれを激励する指導者なくしては、救国運動は不成功になるに決まっている。貴下のなすべき急務とはまさにこのことである。貴下の党の勢力が増加傾向にあるのであれば、思い切ってこの際、同志来日を勧誘したらどうであろうか。愛国心に富む我々日本人は、貴下およびその同志達を礼をもって迎える。
(同上)

ファンは感激し、大隈に丁寧に一礼した。さらに犬養は、クオン・デ殿下の来日を促し、将来の立憲君主国の君主としての見聞を日本で広めることを勧めた。これが東遊ドンズー日本に学べ運動の発端となった。

300名ものベトナム留学生

ファンは7月上旬、ベトナムに舞い戻り、日本での状況を説明した上で、9月末に横浜に再上陸した。この時は3名の学生を連れていた。また一行の後を追って、さらに6名が来日した。

一同は浅羽医師の病院に住み込み、日本語などの勉学に打ち込んだ。犬養は3名を振武学校に、1名を東京同文書院に入学させ、給費生として学費も支給されるようにした。振武学校は陸軍士官学校入学を目指す中国人のための学校で、蒋介石もここで学んでいる。東京同文書院も中国人留学生のために創設された学校である。

明治40(1907)年3月には、クオン・デ侯もベトナムを脱出して、横浜に辿り着いた。生まれながらの地位も名誉も捨て妻と幼い子供たちを残しての来日だった。振武学校はクオン・デを受け入れたが、フランスの了解がないため、貴賓としてではなく一介の留学生として受け入れざるを得なかった。

ベトナム人留学生たちは、日本で懸命に勉強し、心身を鍛えた。その様子がベトナムに伝えられると、留学希望者が殺到し、明治40年には約200名に達してさらに増える勢いだった。学生の急増で東亜同文書院の教室が足りなくなると、同校の役員たちは私財を投じて、5つの教室を増築した。

ベトナムの志ある人々は、一人でも有為な青年を日本に送ろうと高額の旅費を工面し、フランス官憲の厳重な警戒をくぐり抜けて留学生を送り出した。やがて留学生は300名もの規模に達した

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