ベトナム独立運動を無償で支えた日本人医師・浅羽佐喜太郎の義挙

 

「全生涯をかけて革命運動にこの身を捧げる」

見なれない一隻の船が「浅羽病院」のある海岸に着いた。(中略)船には、大きな魚樽(だる)が乗っていた。中から風采(ふうさい)ただならぬ人物が出てきた(注:この海岸は、神奈川県前羽村町屋<現在は神奈川県小田原市の一部>の海岸)。集まってきた漁師たちは話しかけても通じない。筆談もだめ。「この村でいちばん偉いのは浅羽先生だ。先生の所へ行けば何とかなるだろう」と。
(同上)

静岡県浅羽町の『町史』の一節である。ファン・ボイ・チャウが日本に上陸した経路については諸説あるが、この記述が信憑性が高いと田中氏は指摘はしている。

ファンは1867年、日本の明治維新の前年にベトナム中部の旧首都フエの郊外で生まれた。父は貧しい寺子屋を営んでいた。その父に厳しく躾けられて、ファンは神童と呼ばれた。父はファンが学者として育ってくれる事を期待したが、当人は祖国ベトナムがフランスのもとで植民地化されていく現状を悲憤慷慨し、中国古典の勉強では飽き足らなくなっていった。

フランスのベトナム侵略は、1802年にベトナムを統一した阮(グエン)朝がキリスト教宣教師とフランス人傭兵部隊の力を借りた時点から始まっている。キリスト教の浸透が徐々に進み、フランス人の影響力も強まっていった。フランスは軍艦を送って、ベトナム支配を徐々に広げ、1884年にはベトナム全土がフランスの保護下に置かれた。

抵抗したベトナム人は逮捕され処刑された。1902~3年の間に2万4,380人が収監され、1万2,000人がギロチンで処刑されている。ファンは20歳の時に、「不法侵略者フランス軍から祖国の独立と同胞の自由を奪還するのには革命以外には道はない」と考え、「全生涯をかけて革命運動にこの身を捧げる」と決意した。

「ベトナムは日本に学ぶべき」

ファンは、フランスの傀儡となっていた阮朝13代のバオ・ダイ帝を見限り、阮朝初代からの直系であるクオン・デ侯を盟主として立憲君主国を建てることを目指した。同志を集めつつ、国際情勢を研究して、日本に着目した。

日本は若い志士たちが力を合わせて、明治天皇を中心とする新政府を樹立し、急速な近代化を進めていた。ロシアと戦争になりかけているが、必ず日本は大国ロシアに勝利するであろう。ベトナムは日本に学び、かつ独立のための武器援助を受けるべきだ、とファンは考えた。

1904年、ロシアのバルチック艦隊がベトナムのカムラン湾に寄港し、その威容を見た人々は「こんな凄い艦隊を日本がやっつけることができるわけがない」と、ファンを疑った。しかし日本海海戦で日本が大勝利を上げると、ベトナム人同志たちは日本の力を再認識し、ファンへの評価と信頼も一気に高まった。

1905(明治38)年1月20日、ファンは中国人に変装してベトナムを脱出。香港、上海を経由して、4月下旬、日本に上陸したのである。

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