たまには、欲張ってみる。一休禅師ゆかりの大徳寺で特別の紅葉を

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紅葉シーズンを迎えた京の都に、今年も国内外から多くの観光客が訪れています。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では著者の英 学(はなぶさ がく)さんが、一休禅師ゆかりの大徳寺の紅葉と、国宝に指定されている当寺の方丈について詳しく紹介しています。

大徳寺の魅力

紅葉のシーズンを迎え京都は1年で最も賑わう時を迎えています。紅葉の名所は人で埋め尽くされ、京都の秋はより一層深まっていきます。今回は一度に沢山の紅葉スポットを楽しむことが出来る大徳寺の魅力をご案内します。

大徳寺は1319年に宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)によって創建された名刹です。花園上皇の祈願所、勅願寺となりました。天下の台所と呼ばれた日本最大の貿易港、(大阪)堺の豪商たちの寄進を受けて飛躍的に発展しました。

後醍醐天皇の時代には禅寺の格付けで京都五山の第1位になりました。大徳寺は後醍醐天皇の帰依を受け全盛期を迎えました。しかし足利尊氏が反旗を翻し、室町幕府を樹立し夢窓疎石に帰依すると、禅宗は疎石派と妙超派の二大門派の対立が激化します。そのため室町幕府が開かれ五山とそれに続く十刹の制度を改めた際、大徳寺は十刹の第9位まで突き落とされてしまいました。

1431年、妙超の気骨を継承する大徳寺は自ら林下(りんか)と呼ばれる野に下りました。権力を離れ純粋禅を選びひたすら座禅に徹する禅本来の姿を追求する道を選んだのです。その結果五山の権力に寄り添った姿に批判的な禅僧が大徳寺に集まり、かえって傑僧を排出するようになりました。

1474年、あの有名な一休が御土御門天皇の命により81歳で大徳寺の48代住持になります。住持となっても一休は権力者や富豪との交わりを避け大徳寺の復興に尽力しました。一休は商売や金を嫌いましたが、堺の豪商はかえってそうした一休に帰依し、彼らの寄進を得て寺は復興を遂げたのです。一休は酬恩庵で88歳の生涯を閉じましたが、それまでのわずか8年間で大徳寺の堂宇を一新しました。

堺の豪商の帰依が深かった背景には、一休の自由奔放さが慕われたと伝えられています。一休は仏教の戒律で禁じられている飲酒肉食女犯を行い77歳で盲目の女性と知り合い入寂まで同棲したといわれています。大徳寺の塔頭・真珠庵には一休の遺品や肖像画が保存されています。

堺の豪商によって復興した大徳寺は、堺出身者と密接な関係を持っていました。
一休に学んだ茶人・村田珠光によって茶道が考案されたため、弟子にも堺出身者が多数います。中でも武野紹鴎やその弟子の今井宗久、津田宗及、千利休などは全て堺出身者です。

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