9 欧米では透析の非導入や中止は日常
欧米では高齢者や認知症の人は医療経済やQOLの観点から透析の非導入や中止は日常的だ。年々増えている。そもそも本人意思(リビングウイル)や家族意思は法律で担保されている。だから非導入や中止は当たり前のこととして社会に受けとめられている。むしろ日本のように「本人の意思やQOLを無視して死ぬ日まで透析を続けている」実情のほうがずっと問題ではないのか。
世界的な視野からは、導入率や完遂率が9割(あくまで福生病院の数字だが)という数字こそがまさに異次元だと思う。行政は福生病院を調べる暇があるのなら、全国の透析医療機関の導入率や完遂率の実態調査をすべきではないか。その結果をベースにしてこの議論をすべきだ。
透析は延命治療である。導入も継続も、非導入も中止も再開も、土台は同じ。つまり患者・家族と医療者が、何度も話し合いをしながら当事者が透析に納得・満足していることがなによりも大切である。医学会のガイドラインも大切だろうが、年齢、併存疾患、全身状態、認知機能だけでなく本人の死生観や家族の意向などを考慮すると画一的な線引きをするのは決して容易ではない。私たち医療者も毎日思い切り悩む。そもそも「死が差し迫っている」かどうかの具体的基準など造れない。だからこそ2018年「みんなで対話を重ねる」というプロセスを重視した意思決定支援(人生会議)が国策となったわけだ。福生病院でもそれを行ったうえでの結果ではないのか。
10 「痛い透析医」!?
ここまでいろいろ書き出したが、つまるところ、福生病院内で「人生会議」をどんな風にやったのかが、本来の論点ではないのか。しかしメデイアはなぜここで人生会議という文字を誰ひとり書かないのか不思議でならない。それは私には、是々非々で国策とした「人生会議」の限界を物語っている気がする。本来は人生会議の意義(この40代女性のケースでは上手くいかなかったようだが)として論ずるべきだ。
人の気持ちは常に揺れ動くもの。それでいい。
しかしその都度、本人と家族の意向に寄り添い、丁寧な対話を重ねるのが日本型の終末期医療のカタチだ。今、夫が「後悔している」と新聞に打ち明けるのであればこの患者さんの人生会議は失敗だったことになろう。
そもそも人生会議が患者・家族に有効である確率は6~7割で決して万能な方策でない。医師と患者の意思疎通はお互いが一生懸命にやっても常に100点満点にはならない。精いっぱい努力しても結果が良くないことがあるのが医療だ。つまり40代のこの患者さんにとって、主治医は「痛い透析医」だっただけではないのか。先述した、「痛い」の意味にもう一つ付け加えるなら、患者さんへの想いが強すぎて周囲から独断的と言われかねない、という意味の「痛さ」である。
毎日新聞3月13日の記事には以下のような記述がある。
外科医は、透析治療をやめると心臓や肺に水がたまり、「苦しくなってミゼラブル(悲惨)で、見ているこちらも大変。透析の離脱(中止)はしてほしくない」と話す一方、「『透析したくない』というのは立派な主張。患者にとってメリットだという信念で、適正な選択肢を示している」と話している。
私はこの、外科医の「ミゼラブルだ」とか「自信がある」という言葉が引っ掛かった。私は主観の押し付けをしないよう自戒している。痛い医者との人生会議がうまくいかなければ、残されたご家族の心も「痛く」なる。
だから行政や日本透析医学会や日本医師会にはどうか福生病院の医師たちを「責める」だけで終わりにしないでほしい。
患者さんのことを想い一生懸命に行動したが、ある患者さんへの対応は結果的に上手くいかなかった。福生病院の医師は「透析医学会のガイドラインが厳しすぎる」と言っているが、私も同感だ。抽象的なので現場では使えない。そもそも「維持血液透析の開始と継続に関する意思決定プロセスについての提言」があるだけで、終末期ガイドラインをまだ出せていない。学会内部で意見がまとまらず「日和った」まま漫然と現状に甘んじている、という情報提供も頂いた。そんな姿勢が極めて特異な日本の透析実態の根っこにある。
付け加えれば、日本の透析導入時年齢の平均は約70歳だ。75歳以上が40%で、80歳以上が25%である。現在の日本の透析は大半が後期高齢者への延命医療なのだ。
また透析医学会は「非導入は想定外」というコメントを発しているが、これこそがまさに現場からの乖離を象徴している言葉だ。透析を「はじめたくない」とか「もうやめたい」という患者さんの声にちゃんと向き合えていない。人間の尊厳よりも医業経営を優先なのか。マスコミや行政は叩く相手を間違えているように思えてならない。
だから今回の報道をきっかけに「本人意思を尊重した非導入や中止」「透析のやめどき」について、医学会任せではなく、国民的議論を始めるべきだ。議論の核心はまさに「本人意思の忖度」の具体的方法である。
「透析のやめどき」という切実な問題に初めて光が当たった出来事だったといえよう。東海大学病院事件にせよ射水市民病院事件にせよ、患者・家族の意思を尊重しようとした医師が悪者になった。しかしそれがきっかけで、終末期議論が少し前進してきたのが日本の終末期議論の歴史だ。だからせっかくの透析議論を、浅いものに終わらせたくはない。
最後に旅立たれた患者さんのご冥福をお祈り申し上げます。
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