さて、この「他人」と付き合うのが、イヤかイヤじゃないのか。これってつまり、付き合うかどうかの基準が
- 好きか嫌いかという軸「だけ」
だということです。
- キライだから付き合わない
- 好きだから付き合う
ということです。ま、分かりやすいですよね。こここそが現代日本人の
- 人間関係をヒジョーに難しく(><。
しているんじゃないかと思うんです。
この場合に限りませんが、ヒトは
- 判断基準がひとつだけだと、うまく判断できない
もんです。おそらくその基準にかかるプレッシャーがものすごく強くなってしまうからでしょう。
判断基準がひとつしかないということは、基準をクリアしているものにはイエス的な結論が、クリアしないものにはノー的な結論が待っているものです。そして、そのイエス・ノー的な結論が判断の前から見えてしまっているので、プレッシャーがかかるんだと思います。
ちょっと例を出してみましょう。
たとえば、片付けでは、モノを処分するかどうかの基準として「必要か不要か」という基準が用いられています。みなさんも聞いたことがありますよね。必要なモノは取っておき、不要なモノは捨てることになります。この場合、取っておく・捨てるがイエス・ノー的な結論ということです。
ところが、モノには思い出や価格など多様な情報が詰まっており、この「要不要」という基準だけでは、
- 目が粗すぎて多様な情報をくみ取れない
んです。このため、モノに多様な情報を読み出せる人ほど、「要不要」が判断でできず(だって、不要と判断したら捨てることになってしまいかねませんから)、結果的に
- 片付けが苦手・・・(;_\)
ということになってしまうんですよ。
これと似たようなことが人間関係でも起こっているんじゃないでしょうか。すごくたくさんいる他人を好きか嫌いかの二分だけ、しかも感情だけの軸を基準にして判断するのは、
- ヒトにまつわる多様な情報を読み取れない
ため、判断を難しくし、結果的に人間関係自体が息苦しくなってしまうのではないかと思うんです。
好き嫌い軸だけだと曖昧な感じがなくて、All or Nothing的なんですよね。どうしても「好き」じゃない誰かを「嫌い」に認定するのって
- キツい作業
になっちゃいますから。好き嫌いには、どこか人格的な非難が含まれている感じがするので、相手を嫌いと認定すること自体冷酷で狭量なところがある気がするからでしょう。