渋沢栄一の子孫が不安視。コロナ禍が安心、安全、安定を崩壊する

 

新型コロナウイルスによる監視社会への懸念

感染が広まることを阻止することは安心につながります。しかし、強制的に検査を実施し、IT技術などを駆使して徹底的に陽性・陰性の市民を分断して行動を監視する世の中が理想であると言えるでしょうか。

有事では政府介入が不可欠です。しかし、有事において導入された多くの措置が、平時でも安心、安全、安定のために多くが継続されることになるでしょう。安心、安全、安定という市民の切実な要望が、全体主義の監視社会を招いてしまうことが、アフター・コロナの最大のリスク・シナリオです。

「全体主義と言っても、それは制圧的な独裁者が現れるということより、市民が知らず知らずのうちに自ら自分の自由を手放していく危険性である」と早稲田大学大学院の岩村充先生は警鐘を鳴らしていらっしゃいます。

確かに日本人は誰かに決めてほしいという傾向があるようです。実際、「不要不急の定義は何か」という声が上がりました。また、日本人が一番戸惑う言葉は「ご自由にどうぞ」かもしれません。

岩村先生がご指摘のように、かつて自由は「命を落としてでも獲得するもの」でした。今は、自由は当たり前のものと思っているため、実際に奪われるまでは自由の価値の実感が湧かないのかもしれません。

人間は複雑な状況に対して単純な答えを求める傾向があります。例えば、検査を徹底しワクチンさえ開発できればコロナ禍を抑え込むことができて社会が正常化するという答えがあります。合理的な考えではあります。しかしこの答えが「正しい」と言い切れるでしょうか。

専門家であっても、公衆衛生、疫学、研究、臨床という立場によって、PCR検査については賛否両論です。ウイルス感染を抑え込むことと医療崩壊回避は必ずしもイコールではなさそうです。トランプ大統領が消毒剤を注射することに効果があるのかと記者会見で呟いただけで、それを信じたアメリカ人が少なくなかったようです。「自由」が建国精神であるアメリカでさえ、このような思考停止の状態にあります。

一人ひとりが自身で考えて行動するという力が衰えてしまえば、そこには自由はありません。

自身でしっかり考えずに、自由に行動してしまうことは、独りよがりで責任放棄です。ステイホームという政府からの要請により、ゴールデンウイークは、繁華街や道路などはかなり空いていますが、地元の商店街には相変わらず人が多くて驚きました。

自分が良ければという基準で行動することが、自由ではないはずです。「自粛」の本来の意味は、周囲の「空気を読む」ことではなく、自分から進んで、行いや態度を改めることです。

shutterstock_1670025949image by: shutterstock  

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