同志が語る李登輝氏の素顔と日本愛。私たちは反日勢力と中国にどう対峙すべきか?

 

戦中世代から見た「旧制高校」の人物像

戦前「旧制高校」出身の人々は、世界的に活躍していただけでなく、人柄や人格も一流で、敬意を抱かれるべき人物ばかりでした。当時の日本政府は、坂の上の雲を目指して上っていく勢いがあったことと関係あるのではないかと、私は感じていました。

李登輝は晩年、「言語学者の故・王育徳先生は、台北高校の一期先輩だった」と私に言ったことがありました。私の記憶では、王育徳は李登輝よりも一つ年下でした。その時すでに王育徳氏は亡くなっていたので、私は王夫人に確認しました。

李登輝の先輩だったのは王育徳先生の兄で、かつて京都地裁の判事を務めたことのある人物ではないかと。

すると、王夫人はこう言いました。当時は飛び級制度があって、王育徳は李登輝よりも一つ年下だったが、確かに一期先輩だったと。それを聞いたとき、私は李登輝の記憶力に驚嘆したものでした。

私はかつて、拓殖大学の客員教授を務めていた時代があり、『大学百年史』の編纂に携わったことがありました。

その時、日本の植民地政策がいかに東アジアにとって有益だったかを改めて感じたものです。日本は19世紀末の時点で、すでに就学率が100%近くありました。同じ時期、台湾の就学率は1%未満。中国も朝鮮も同様でした。

日本は、朝鮮に京城帝国大学、台湾に台北帝国大学を作り、朝鮮と台湾に国民教育を導入しました。逆に言えば、日本なしでは国民教育と実業教育の導入は考えられなかったのです。李登輝は、こうした日本の植民地政策の功罪についてきちんと評価していました。特に、日本がもたらした功の部分について高く評価していたのです

拓殖大学勤務中に、「何度か李登輝を正式に招待しているが一度も返事がない」という問い合わせを大学の理事からもらったことがありました。その当時、台湾は馬英九政権で、国民党政権による民主派排除の空気がまだありました。アメリカの駐米代表所には、李登輝の著書『台湾の主張』(PHP研究所)が地下倉庫に山積みで放置されているという話を聞いていました。

そこで私は、大学の理事にこう言いました。「台湾人は中国人とは違い、本音と建て前を分けることはしない。恐らく東京の台北駐日経済文化代表所が握りつぶしていたのではないか。李登輝事務所に直接連絡を取ってみてはどうか」と。そこで、理事が李登輝事務所に直接FAXをしたところ、すぐに返事が来たとのことでした。

その後、李登輝の拓殖大学訪問は実現しました。李登輝が靖国神社参拝後、拓殖大学に来てくれたのです。私は大学の理事でも何でもありませんでしたが、理事長が「台湾の元元首が訪問してくれるのだから、君も参加しなさい」とのことだったので、会議室に馳せ参じた次第でした。

その時、会議室で李登輝は、なぜ靖国神社を参拝したのかということを原稿なしで話されました。その話を聞いていた人たちの多くは、涙を拭っていたように記憶しています。会議室を出て階下に下りると、台湾人留学生たちが待っており、熱い拍手で熱烈歓迎の意を示しました。

大学の外には大勢の記者が待ち構えていました。そして、李登輝に「なぜ靖国を参拝したのか」という質問を浴びせるのです。李登輝は冷静に、一人の女性記者に対してこう答えました。「戦死した兄のお参りに来ました。もし君の兄が靖国に祀られていたら、君はどうする?」。その女性記者は黙って返事ができませんでした

李登輝元総統の著書に『武士道解題』(小学館)という本があります。李氏の桃園の自宅を訪問した時のこと、ちょうど日本語による原稿作成の最中でした。私もすでに日本で執筆を生業としていましたので、何かお力になりたいと思いました。

しかし李氏は、私がこの本を手伝えば反李派の中国人から攻撃されるのではないかと憂慮して下さいました。私は当然、ご心配には及びませんと申し上げました。すると李氏は、「武士道とは決して日本特有のものではなく、東亜の人々共有の精神文化です」と言って、「校正のチェックを手伝ってくれませんか」と言ったのです。私は、日本に帰るなり、さっそく小学館の知り合いに連絡を取ったのでした。

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