遥かに望む北アルプス。安曇野(あずみの)エリアはどこからどこまで?

 

安曇野はどこからどこまでというような正式(?)な定義なり、公式な見解めいたものはないのではと思う。青少年時と今、松本に住んでいる私の個人的なと独断と偏見的感触で言わせてもらえれば、それは、今は安曇野市になっている旧南安曇郡の穂高町・豊科町を中心に堀金村、三郷村、梓川村、旧東筑摩郡明科町、北安曇郡の松川村、池田町である。私のイメージの中では北の大町市までは入らない。なお、松川村、池田町は現在もそのままだが、旧南安曇郡で隣合っていた三郷村は安曇野市に、一方梓川村は松本市に入る道を選択した。

『探訪・安曇野、その旅と歴史ロマン』の著者、中島博昭さんは、三つの指標を揚げている。ひとつは、北アルプスから流れ出てくる河川が形成した扇状地であるという点。それもいくつかの河川による複合扇状地。歴史をたどると、梓川から北、犀川の西。つまり筑摩郡と安曇郡の接点が境となっているというのである。二つは、かって安曇氏が支配した地域であること。三つは、住民自身が自分たちの住む地を「安曇平」と呼んできたかどうかの事実。このポイントに基づき中島さんが各地を回って調べたところ、ほぼ安曇野の範囲を押さえることが出来たというのである。

中島さんは言う。結論的に述べるならば、南は梓川から北は大町まで、東は犀川、西は北アルプスが境になる。扇状地でいうなら、南から梓川扇状地左岸黒沢川、鳥川、中房川、乳川、高瀬川の扇状地がおもなものである。中島さんは、大町も佐野坂以南を安曇野としている。

二つ目の指標は安曇氏の支配した地域ということであるが、安曇野と郡名の安曇の由来になっている一族である。6世紀ごろこの地へ北九州からやってきたとされる。本来、北九州の博多付近、志賀島一帯を本拠地にする航海、交易海軍の仕事に携わる海人族であった。安曇氏は、都でも大和政権に使える連姓(むらじ)を持つ有力豪族だった。色々の説があり理由ははっきりしないが、6~7世紀、その一族が安曇野など全国各地に移住したのである。なお、安曇氏の物語については、別途少し詳しくふれたいと思っている。

地域的、歴史的に安曇野たるエリアのおおよその枠は理解いただけただろうか。中島さんの著作は1997年発行であるが、南の梓川以北、東の犀川以西、西のアルプス以東はわかる。しかし、歴史的にはともかく安曇野は現在の、しかもこの30年来ほどの地域の呼び方である。大町市の住民は、自分の住むところが安曇野だと認識しているだろうか。むしろ、大町は大町だと思っているのではないだろうか。観光ガイド誌などの捉え方はどうだろうか。次回は安曇野の範囲にからめ、安曇野市誕生のいきさつなどについて若干ふれたい。 UNCLE TELL

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『安曇野(あづみの)通信』

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