元検事・郷原信郎氏が広島を愚弄し続ける自民党を決して許さぬ理由

 

広島は、亡き父母が後半生を過ごした地であり、私も、小学生から中学生の時代、「カープファン少年」として広島市の西隣の五日市町(現在の佐伯区五日市町)で育った。(【「カープとは反権力。巨人という権力との戦いは続く!」郷原信郎弁護士が語るカープ愛】)

当時住んでいた中国電力の社宅の近所に、後に「ミスター赤ヘル」として活躍する山本浩二氏の実家があった。

五日市小学校の8年先輩の浩二氏が、廿日市高校のエース・四番打者として甲子園をめざす県大会に出場、浩二氏の母上は、道端で会う度に「また勝ったんですよ。明日も応援じゃ。」と嬉しそうに話していたと、母から聞いた。

五日市中学といえば、為末大氏とは、10年程前、「G1サミット」でお会いして、広島県出身者同士として話したことがある。

その為末氏が、五日市中学校の私の24年後輩に当たることは、最近、広島県関係者の経歴を見て知った。

為末氏とは、名刺交換し、お互いにメルマガを送信している。

アスリートとしてだけではなく、人間的に素晴らしい人だと思い、毎回、メルマガを読ませて頂いている。

高校は松江、大学は東京だったが、大学卒業後に就職した鉱山会社を1年半で退職したあと、2年間、両親のもとで独学で司法試験の受験勉強に取り組んだのは、両親が暮らしていた南区元宇品にある、広島港を見下ろすマンションの一室だった。

合格後の2年間、司法修習生として実務修習を送ったのも広島だ。

1990年代末には、広島地検特別刑事部の創設直後に部長を務め、広島県政界をめぐる不正事件の解明に取り組んだ。

そして、検事を退官し、弁護士登録した直後の2006年秋に表面化した中国電力の「土用ダムデータ改ざん問題」を契機に設置された、同社のアドバイザリーボードの委員長を務め、同社のコンプライアンスによる「企業再生プロジェクト」の中心を担った。

その頃から2017年まで、広島の企業関係者や弁護士を集めた、コンプライアンスに関する「みなとコンプライアンスフォーラム」と題するセミナーを、元宇品で行ってきた。

私にとって、広島は、出生地で高校時代を過ごした島根県の松江市以上に、思い入れの深い地だ。

それだけでなく、検事としての広島県政界をめぐる不正の捜査、そして、弁護士としてのコンプライアンスに関する活動に関して、私なりに足跡を残した地であるだけに、その広島での参議院再選挙に向けての自民党の対応には、特別の感情を持たざるを得ない。

1995年、東京地検から広島地検に異動になり、久々に広島で暮らすことなった私を迎え、両親が喜んだのもつかの間、母が末期の大腸がんとわかり、1年余り私と父が懸命に看病したが、亡くなった。

母は、広島市内の病院で大腸のポリープの切除を受けた後、極度の貧血となり、6回も大腸内視鏡検査を行っていたのに、癌が発見されなかったのである。

私が広島に転勤となって数か月後、母は激しい腹痛に襲われた。

手術を受けると、癌は腹膜にまで広がっており、末期だった。

内視鏡検査での見落としの医療過誤によるものであることは明らかだったが、癌が見落とされたたまま進行していた頃、私は、東京地検特捜部に所属していて休みは全くなく、広島の母を見舞うこともできなかった。

内視鏡検査をしていた医師は医師免許を取得したばかりの研修医だったが、「大腸内視鏡検査での癌発見には技術が必要で、研修医等にできることではない」というベテラン医師の話を聞いた時には、既に手遅れだった。

1997年1月に母が亡くなった直後、私は、当時発足して間もない広島地検特別刑事部の所属となった。

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