プーチン体制で海外脱出ブーム
注目すべきは、侵攻以前に、プーチン政権下では歴史的な「海外脱出ブーム」が起きていたことだ。それには構造的な原因があった。旧KGB(ソ連国家保安委員会)出身のプーチン氏は、「強い国家」の再建を掲げて、2000年に大統領に就任し、混乱したロシアに安定と発展を取り戻す「救世主」として、国民から絶大な支持を受けた。実際には、民主化が後退する中で、汚職は悪化し、巨大な利権構造の壁に阻まれ、石油・天然ガスなどの資源に依存した産業構造の改革は、いまだに手付かずのままだ。若者らの海外移住が増え続けていた背景にはこうした閉塞的な状況があった。
海外脱出ブームがとりわけ顕著になったのは、「体制内リベラル」といわれ2008年から大統領を務めたメドベージェフ氏(現安全保障会議副議長)が再選を目指さず、プーチン氏が翌2012年に大統領に復帰してからだ。
都市部の中流層を中心に保守化、反動化するロシアの行く末に、強い不安を覚える人々が急増したのだ。その後、2018年のギャラップの調査ではロシア人の2割が外国に永住を希望すると回答した。
ロシアからの脱出者がもし30万人に及ぶとしても侵攻されたウクライナからの避難民数と比較すれば、微々たる数字かもしれない。ただしウクライナ人の場合、停戦が実現すれば、帰国を希望する者が大多数と推測されるのに対して、脱出したロシア人の大半は、帰国する意思をもたないと思われる。ロシア政府はIT人材を引き留めようとあの手この手の優遇策を示すが効果は薄いだろう。ロシアではさらに統制が強化される可能性が高いからだ。
「浄化」と豪語
これに対して、プーチン氏は、侵略戦争を拒否し政権を批判する人々を「裏切り者」と断罪している。とりわけ3月16日、経済制裁への対策を話し合うオンライン会議でのプーチン氏の冒頭演説は衝撃だった。「ロシアの人々は、常に真の愛国者と悪党、裏切り者を見分けることができ、偶然口に飛び込んできたハエのように、簡単に吐き出すことができる」と言いながら、実際に何かを吐き出す仕草をして見せた。そのうえで批判者の排除は「自然かつ必要な社会の自然の浄化作用」だと言い切った。
プーチン氏はこれまでも政権批判派を、ロシア人でありながらロシアの「敵」、つまり欧米に影響された「第5列」「裏切り者」などと非難してきた。最も荒々しい表現といえば、2011年の冬に、首都モスクワなどで吹き荒れた大規模な反プーチンデモの参加者を、キップリングの小説に出てくる、「猿の群れ」と猿呼ばわりしたことだ。しかし今回のように、国際社会と価値観を共有する批判的なロシア国民を「ハエ」呼ばわりしたうえで、彼らがロシア社会から排除されるのは、「社会の自浄作用だ」とまで表現したのは初めてである。22年間、プーチン氏をウオッチし続けてきた者として、この表現は衝撃的だった。
独裁政権に反対する国民を人間以下の存在とする暴言を吐いた現代ロシアの指導者といえば、ソ連を生み出したレーニンや、スターリン以来だろう。レーニンはロシア全土を収容所群島に改造。忠実なレーニンの弟子を任じていた独裁者スターリンは、農民への戦争ともいうべき強制的な農業集団化や、数百万人以上の国民を銃殺する「大粛清」(大テロル)を行い、ロシア社会は今もその後遺症に苦しんでいる。その意味では、政権を支持しない国民を「ハエ」呼ばわりするプーチン発言は、危険な兆候とみるべきだ。さらなる決定的に暗い展開を予感させるからだ。プーチン政権が今後、さらなる破滅的な政策を打ち出す恐れも排除できない。ウクライナへの歴史的、地政学的な「妄想」に囚われたプーチン氏が侵略戦争に踏み出した結果、ロシア国家の衰退が加速度的に進行する事態はもはや避けられそうもないようだ。
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