西郷は銃弾を受けて負傷し、西郷軍の先鋒隊長を務めていた別府晋介に介錯されて死亡しました。西郷の胴体と首は明治政府軍に回収されたのですが、首の写真を撮ることはありませんでした。また、生前の西郷が写真を撮らなかったことは有名で、それゆえ、薩摩や政府関係者は西郷の顔を知っていましたが一般国民は知りません。上野公園に建つ高村光雲作の有名な銅像が出来たのは明治三十一年(1898)です。
顔のない英雄は死に疑念を抱かせたのでした。
また、源義経の首級が鎌倉に届けられましたが、死亡してから日数が過ぎ、おまけに夏であったことから腐敗していた、と伝わり、これが義経本人ではない、という疑念を生みました。
首級といえば、織田信長の首も見つかりませんでした。本能寺が炎上し、信長自身も焼失してしまったからです。宣教師、ルイス・フロイスは、「その声と言わず、名前を聞いただけで人々を戦慄せしめた、あの織田信長が髪の毛一本残さず、地上から消え去った」と書き残しています。
信長の首級を挙げられず、明智光秀は焦りました。光秀ばかりか、織田家の武将も疑心暗鬼に駆られます。羽柴秀吉は信長と嫡男信忠の首級が挙がらなかったことを利用し、攪乱策を取りました。光秀に味方するか秀吉につくか去就に迷っている武将に、「上さま並びに殿さまは無事に落ち延びられた」と記した文を送ったのです。
信長の死は間違いない事実と認知されつつありましたが、首級がない以上、僅かながらも生存の可能性があり、生きていたら信長のこと、光秀に加担した者と一族を情け容赦なく殺し尽くす、この恐怖心が光秀に奔ろうとした決断を鈍らせました。
戦国の世にあって敵将の首を挙げることは最も確かな勝利宣言だったのです。
さて、西郷です。
西郷生存説に拍車をかけたのは、西南戦争終結してから十三年後の明治二十三年(1893)に行われた西郷の国賊解除でした。明治政府は正三位を贈って西郷の功績を顕彰しました。この政府の動きが国民の間に流布された西郷生存説の信憑性を高めたのです。新聞は西郷がロシアから皇太子と共に来日する、と書き立てました。
更にはヨーロッパを訪問した薩摩閥の代表で首相も務めた黒田清隆と密会し、帰国を約束した、などと根も葉もない事実をまるで見てきたように記事にします。
国民は西郷さんのカムバックに沸き立ちました。政府は見過ごしにはできず、強く否定しますが却って国民の熱狂を煽ることになりました。
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