私が師と仰ぐ野口芳宏先生は常々「潰しても潰しても出てくるのが個性」と述べられている。本物の個性というものは、出そうというより、誰にも消しようがないものである。潰そうと思って潰れてしまうようなものは個性に非ず、個性と呼ぶに値しないということである。
また個性というとプラスイメージが湧きやすいが、マイナス面も多分にある。我が身を振り返ってみて、気を付けていてもついつい出てしまう長年の悪癖の類というのは、紛れもない個性である。それは根深く、どんなに一生懸命に抜いても永遠に生えてくる庭の雑草のようなものである。その種類は生理的な欲求から趣味趣向や衝動まで、実に様々である。恐らく、多くの人はそれすらも「自分はそういうもの」と開き直っているのではないかと思う。
つまり、個性とは、自分ですらどうにもならないものである。ましてや、他人がどうこうできるものではない。「こんな教育で子どもの個性が潰れてしまうのではないか」と悩んでいる真面目な親や教師は多い。そんな人たちに、個性は言う。安心してください。きいてませんから。
その人間が生来もつ個性というものは、そんなヤワなものではない。先に述べた強い雑草の喩えである。教育した程度で消える性質のものなら、それはそもそも個性なんていうご立派なものではない。
その証拠として、私たち自身がいる。なぜ私たちは、あれほどまでに平均的な教育を受けたのに「学習指導要領の定めるような性質を全て備えた平均的な日本人」にならなかったのか。ほぼ全ての国民があれほどたくさんの勉強、宿題を強制的に毎日やらされたのに、その習慣が多くの人に断片的ですら残っていないのはなぜなのか。休み時間になってまで無理矢理給食を食べさせられたのに、未だに好き嫌いが残っているのはなぜなのか(特に昭和生まれの皆様)。あんなに一斉授業ばかり受けた人間集団の中から、超個性的な人物が出ているのはなぜなのか。
要は、そういうことである。真に個性に属するものは、変えられない。どうせ変えられないのだから、やるべき方向性ははっきりしている。
一つ目は、気にしないでやるべきことをやるということである。一律にやらせようが個別にやらせようが、どうせ個性は残るのである。堂々とどんどんやればよい。
もう一つは、やるべきことをやれど、変えようと望まないことである。過去と他人は変えられない。個性を変えられるわけがない。「何であなたはいつも・・・!!」に続く説教は、無意味か有害かのどちらかである。そういう生き物だからと割り切るに限る。これは、教育に限らず、人間関係全般にいえる。変わるかどうかに関わらず、やるべきをやればいいのである。
『学級経営がラクになる! 聞き上手なクラスのつくり方』にも書いたが、他人の話を聞くということは、基本姿勢として求めねばならない。個性どうこうとは別の話なのである。
個性は生きるし殺せない。腫れ物にさわるようではなく、堂々とやるべきことをやっていきたい。
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