千恵は地元の福岡教育大学大学院を卒業して念願だった小学校の音楽教諭として働き始めました。僕が記者として勤めていた西日本新聞社宗像支局に真っ白いワンピースを着た女性が訪れ、コンサートの記事掲載と後援の依頼を受けたのですが、これが12歳年下の千恵との出会いでした。
乳がんが見つかったのは交際を始めてからしばらくの頃。千恵は罹患したことで大好きだった教師の職を辞せざるを得なくなりました。
2001年、僕たちは結婚し、やがて千恵は赤ちゃんを身籠りました。がん治療後に妊娠をすると卵巣の女性ホルモンが活発になり、再発のリスクが高まるといわれています。一度は堕ろすことを考えたものの、最後には産むと決断。それからの千恵はまるで迷いが吹っ切れたように逞しく明るくなりました。
千恵がはなにみそ汁づくりを教えたのは、自らの死期を意識していたことともう一つ、食の大切さを伝えたいという思いがあったからでした。
はなが通っていた高取保育園(福岡市)では、「命あるもの、生命力に溢れたものを食べれば心身は健康になる」という考えのもと、保育の中核に食を位置づけています。玄米や納豆、みそ汁、煮物などが給食の定番メニューで、食材となるみそは年長組の園児たちが毎月100キロ仕込みます。
千恵はこの園の方針にいたく共感し、以来、食への関心を高めていくのです。食材を丸ごと使う環境にやさしい調理法・ホールフードを福岡に普及させることには最期まで情熱を燃やしていました。
はなが一人でみそ汁をつくり始めた頃、福島県の少年が母親を殺害する事件が起きました。ラジオでそのニュースを聴いた千恵が「家族で食卓を囲んで毎朝、ご飯とみそ汁を食べる環境で育っていたら、きっとこの事件は起こらなかったんじゃないかな」とポツリと呟つぶやいたことがありました。
千恵の書棚から、「弁当の日」という食育を提唱された竹下和男先生の本を見つけたのは、千恵の死後、しばらくしてからのこと。
「日本中の家庭が毎朝毎晩、食卓を囲むことができれば子供たちの問題行動は十分の一に減る」という一文に線が引いてあるのを見た瞬間、千恵がはなにみそ汁をつくらせようと思った本当の理由が理解できた気がしました。と同時に「食べることは生きること」という自身の願いを、僕とはなに託そうとしたことを確信したのです。
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