このシーンに対する何らかの感情移入は、障がいのある人の社会での位置づけを考えたいという積極的な動機と個人的な関与を求めて思考されるものかもしれない、もしくは何かしらのつながりで、その苦しみや悲しみ、不釣り合いや非対称性を軽減することができるかを考えたいという感覚を持つ人は一定程度いる。
それが潜在的なケアラーでもあり、それを国境や文化を超えて、伝えられるのは、この作品の持つ文化性の高さと鋭さでもあるのだろう。
主人公が掃除する公共のトイレも、音楽のカセットテープを買い求める下北沢の中古レコード店も毎夕の食事の場となる浅草の飲食店もすべて何らかの文化的要素を含みながら、それはそこに存在するが、自分が関与する何らかのつながりを求めながら、映画を解釈し、価値を積み上げていく作業だと考えると、ケアに関することだけではなく、あらためて映画の持つ文化を育む題材としての機能が再認識もされる。
少し映画を教材として使う目線になってしまったが、そんな映画の話をしながら、友人とのハイキングは、上りも下りも一歩一歩踏みしめながらの行程が続く。
目の前の一歩をていねいに、との感覚を大事にと思いながらも、疲れてくると、先に進むことを目的化する自分がいる。
注意をしなければ目の前の重要な一歩には気づけない。
映画の中で描かれたカセットテープで古い洋楽を聴くのも、中古の小説を読むのも、小さな店に行って店員とちょっとしたやりとりをするのも、些細な日々の一歩かもしれないが、映画で丁寧に描かれている世界では、それが「パーフェクト・デイズ」となる。
日々の一歩一歩、周辺の小さなやりとりを大切にしながら、鞍馬の山で友人とともに叫んだ「パーフェクト・デイズ!」を味わって生きていこう。
今年も。
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image by: 鋸香具師, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons