文筆家が抱く違和感。「ビジネス書」と「ネガティブ・ケイパビリティ」の食い合わせが今世紀最大レベルに悪いと思わざるを得ない理由

 

■より根源的な問題

もちろん、これまでずっとわかりやすい話をしてきたがその問題に気がついた。だからこそいまネガティブ・ケイパビリティについて話すのだ、という筋書きはありえますし、そういうストーリーとして納得することも可能でしょう。

そうなると、次なる疑問が湧きます。

「これがネガティブ・ケイパビリティだ」や「こうすることがネガティブ・ケイパビリティ的な態度だ」とわかりやすく説明することは、ネガティブ・ケイパビリティの能力の向上につながるのでしょうか。

まったく個人的な印象ですが、2時間くらいで本一冊を読んで、「そうか、これがネガティブ・ケイパビリティか。完全に理解した」となる態度は、ネガティブ・ケイパビリティからもっとも遠いものではないかと感じます。

Aという方法ならネガティブ・ケイパビリティで、Bという方法ならネガティブ・ケイパビリティではない、という明確な線引きができると思うならば、それは「わかりたい」という気持ちに抗っていることにはなりません。むしろ無抵抗に受け入れてしまっています。

たとえば、ネガティブ・ケイパビリティについてこの本はこう語っていたが、他の本はどう語っているのだろうか、その歴史はどうなっているのか、などと理解・納得を遅延させること。それがネガティブ・ケイパビリティであり、開かれた態度でもあるでしょう。

あるいは、このやり方がネガティブ・ケイパビリティがあると言われていたが、本当にそうなのだろうか。自分が直面している場面にどこまで適合的なのだろうかと疑いを持つこともネガティブ・ケイパビリティでしょう。

本当に恐ろしいのは、自分は本を読んでネガティブ・ケイパビリティを理解したので、自分がやっていることはネガティブ・ケイパビリティに適していると信じて疑わない態度です。その結果、自分の行いは正しくて、それにそぐわない他者は間違っていると簡単に断じるなら、反ネガティブ・ケイパビリティの極みに到着してしまいます。

むしろ、自分がやっていることは本当に正しいのかという疑いを退けないように保持しておくこと。それがネガティブ・ケイパビリティ的な姿勢ではないでしょうか。

一つの概念を理解することは簡単ではありません。そして、自分の目の前にいる他者を理解することも簡単ではありません。そこでわかったつもりになりたいという傾向を抑え、支配したい欲求に抗って、わからなさを引き受けること。

そうした姿勢があるから、自分のやり方を批判的に眺めることができるようになりますし、同様に他者を「他者」として、つまり勝手な自己理解に落とし込めることなく、その人として向き合うことができます。

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