一方で、長年、クルド人との紛争に明け暮れたトルコ政府だが、40年にわたり武装闘争を続けてきた非合法組織「クルド労働者党」(PKK)は昨年5月に「歴史的使命を終えた」と武装解除し解散すると発表した。
とはいえ穏健なイスラム教国家は、クルド人のほか、イスラム圏内にも敵はおり、歴史都市は今もなお、テロへの危機を念頭に多くの治安維持の兵士が目立つ。
その歴史都市には地下鉄が開通し、トルコの国際空港と市街地は地下鉄で結ばれ、渋滞知らずの時間通りに目的地に到着するから、少々拍子抜けた気がしないでもない。
入国して私がたどり着いた下町はカフェや食堂が露店に席を並べていて、ドネル・ケバブの値段は観光名所よりも半額ほど。
注文しながら、店の男性と話をすると、日本から来たと聞いた途端に、サッカー観戦後にサッカー場を清掃して帰る日本人サポーターに感動したことを繰り返し語る。
褒められるのは、悪い気はしない。
さらに地下鉄車内で大きなスーツケースと共に乗り込んだ夫婦のうち男性が列車の出発に体勢を崩され、私の足を踏んづけることになった。
男性は、よほど踏みつけた感触があるらしく、私に仕草で仕切りに謝ってくるが、痛みは一瞬だけだったので、私もそんなに大仰に謝る必要はないと仕草で応える。
男性は、英語が話せる傍らの妻にも「謝ってくれと」とお願いして、妻と会話が成立した後に、聞くとイランからの観光客で、私が日本人だと知ると、うれしいそうに「行ってみたい場所」であると伝えて、街が掃除によりきれいであることをこの目で確かめたいという。
トルコ人もイラン人も親日が多い事では有名で、歴史を知るトルコ人の中では日露戦争に勝利した日本にいまだに賞賛する人もいる。
「掃除をする」「きれいな」日本に好意を寄せる言葉に触れると、その「きれい」という表象を考えると、私たちが大事にしている、公共をきれいしようとすることを評価されたようで率直の嬉しさとともに、美しさを保つ公共への貢献は、つまり多くの人にとって心地よい空間にするための行為だと気づかされる。
これら国際的な評価そのものも、目的であるのかもしれない。
私たちは公共をきれいにすることで、誰もが過ごしやすい場所を作る行為を実践しているのだ。
これは爆撃を投下させ、街を汚す行為の対義にあると考えると、「きれいにする」という私たちの公共への考え方は、今、混沌した状況で何らかの貢献の道具にならないだろうか、と夢想してしまう。
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