思い出すのは大宅壮一の「一億総白痴化」
アタリは言う。人間社会は何千年も前から、人々の注意力を惹きつけることに取り組んできた。雄弁家は修辞学を学んで群衆の心を動かそうとし、宗教集団は荘厳な儀式や巨大な豪華建造物で畏敬の念を集めようとした。あるいは政権は見世物を利用して人々の関心が同じ方向を向くよう仕向けた。
とはいえ、メディアが活版印刷やラジオやテレビであった時代は、確かにそれで影響力の範囲は広がったが、それによって人々の注意力の性質が変わることはなかった。
その通りで、20世紀の最後の10年間にアッという間に普及したインターネットは、理屈の上では、誰もが四六時中、全世界の人々と繋がっていて、あらゆるインフォメーションを得ることが出来るだけでなく、自分から発信することも出来るという、前代未聞の情報環境を作り出したのだが、正直言って人々はそれを上手に使いこなすだけのそれこそリテラシーを持ち合わせてはいない。
そこに付け込んで、人々の注意力を工学的に操作して悪事を働こうとする政治家、企業家、詐欺師、暴力団などが横行して、「現代文明の断層」を広げることになった。
但し、アタリが「ラジオやテレビの時代までは人々の注意力の性質が変わることはなかった」と言っていることには私は異論があって、テレビの時代にすでに注意力を撹乱させ麻痺させてどこかへ駆り立てるという情報による心理操作は始まっていたのではないか。
ネットが出現する遥か前の1971年に米国の心理学者ハーバート・サイモンは「豊富な情報は注意力の貧困を生む」と警告していたとアタリは書いているが、それはおそらくテレビのことを言っているのだろう。
この場合の情報は「インフォメーション」で、その量が膨大になり溢れ返っているのは豊かさのように見えるけれども、実は人々の注意力をミジャミジャに壊していて、その結果、論理的・戦略的にものを考える力は貧困になっていくという指摘だろう。
テレビに関しては、日本では、テレビというものが1950年代半ばに始まって数年も経っていない時に、稀代の社会批評家にしてジャーナリストの大宅壮一がテレビの本性は「一億総白痴化」にあると喝破したことが知られている、
改めて調べるとそれは、『週刊東京』1957年2月2日号の「言いたい放題」という欄で、「テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い」と書いたのが原典で、白痴化の前に「総」を付けてこの言葉を広めたのは松本清張だとされている。
確かに、テレビはその当時も今も馬鹿げたお笑い・おふざけ番組が主体で、その合間にニュースや、たまには真面目なドキュメンタリーとか懐かしい良質な映画などをやることもあるといった代物で、結局のところ視聴者は、全くの受け身で断片化されたインフォメーションをシャワーのように浴びせられることに慣らされて、その分だけインテリジェントにものを考えることから遠ざかった。それが「一億総白痴化」の意味なのだろう。
ネット時代になると、テレビが受け身一本槍だったのに対して、今度は「誰もが発信者」で、仮に「いいね」ボタンを押すだけであっても自分も全世界に向かって何事かを能動的に発信することが出来るという喜ばしい時代になったのだが、反面、「誰もが発信者」ということは、邪悪な企図を持って人々を騙そうとする者も含まれる訳で、しかもその者が工学的な知識を持っていて気づかれずに人々の内面に入り込んで注意力を操作することが簡単に出来てしまうという誠に嘆かわしい時代にもなったのである。
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