先の大戦への「謝罪」は必要か?戦後81年の日本人に突きつけられる“過去の歴史を批判する”という選択肢

 

(2)宿命としての二重性

とにかく「永遠の敗戦国」というのは日本という国の宿命であり、ドイツ降伏後も孤独な戦いを続け、自身がクーデターも亡命政権の正当化もせずに、「護持されてしまった国体」を主体として降伏した以上は仕方がありません。占領と間接支配という時期を経て再独立する中で、その「国体の連続性」を維持してしまったということは、そのような宿命を受け入れる覚悟あってのことと思います。

その覚悟というのが、終戦の詔勅にある「耐ヘ難キヲ堪ヘ、忍ビ難キヲ忍ブ」という姿勢、また「大道ヲ誤リ、信義ヲ世界ニ失フガ如キハ、朕モツトモコレヲ戒ム」という価値観にあったのだと思います。昭和天皇はその死に至るまでその価値観を体現していましたし、上皇さまも今上の陛下も、この価値観から微動だにしない姿勢を保っていると思います。

勿論、現行憲法下の天皇は憲法の定めるところにより、民主主義の手続きを経て成立した内閣の助言下にあるわけであり、その内閣は世論の支持によって政治を遂行しているわけです。ですから、この価値観というのは文字通り、世論の多数の支持を象徴するものとして、戦後の「国のかたちの浄化」を反映したものと言えます。

ですが、冒頭申し上げたように、「そうではあっても、生まれながらにして敗戦国民であるという出生主義的な負のステイタス」は承服できないという、世代的な異議はあります。またその異議を政治的な求心力に使おうという「発想」は政治の現実として無視は出来ないわけです。

ここに大きな問題があります。国際社会における象徴的意味として「日本は永遠の敗戦国としての恭順国家」だという現実と、「それでも生まれながらにして敗戦国民というのは嫌だ」という国内の感情の問題をどう折り合いをつけるのか、それは難しい問題です。

その難しさを更に難しくしている点が2つあります。1つは、「恭順国家だから軽武装でいい」という姿勢が、例えばアメリカからは「安保タダ乗り論」として嫌悪されるということがあります。一方で、「心の奥には枢軸国の名誉回復を企図」していても、それは「人畜無害な範囲」だから、そうした「反米かもしれない親米保守」をパートナーにして集団的自衛権も認めさせたいというアメリカの長年の「苦渋の判断」があるわけです。

もう1つは、「生まれながらにして敗戦国民というのは嫌だ」という感情論に対して、この拙稿のような説明、つまり「恭順国家というのは象徴的な意味であり、日本の国体が浄化されているのは自他共に明白」というような説明は少ないということです。つまり「生まれながらの敗戦国民」ということを否定するロジックとしては、そこで大きな飛躍をして「枢軸国として戦ったことの名誉を回復したい」という政治的な姿勢に飛びついてしまう、そのような傾向が顕著であることです。

これは大変な問題であり、まず国連憲章の精神に真っ向から挑戦するものでありますし、近隣諸国の、特に中国とロシアが「勝手に戦勝国の正当性を横取り」するという詐術に対して援護射撃をしているような効果が現実のものとなってしまっているわけです。

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