先の大戦への「謝罪」は必要か?戦後81年の日本人に突きつけられる“過去の歴史を批判する”という選択肢

 

■深刻化した問題を解くため日本が見せるべき2つの姿勢

そうした状況の中で、どうして中国や韓国が「謝罪」にこだわるのかというと、そこには2つの効果があるということになります。1つは、現在の日本が「謝罪する」場合は、「現在の日本が悪しき国家」だということを確認して、倫理的な優位性を国民に訴える事ができるわけです。その一方で、「謝罪しない」という場合は、それこそ「悪いのに謝らない」ということで、これまた自国の倫理的な優位性を政治的求心力に変えるような手品のタネになってしまうわけです。

それもこれも、現在の日本の「国のかたち」が枢軸国と一貫しており不変だという理解を前提としているわけです。更に、先ほど申し上げたように、中国も韓国も「日本の敗戦」が国の原点だという史観を採用してしまっていることが、この問題に拍車をかけています。ちなみに、中国建国の原点は自由経済を停止して再分配を行うことでしたし、韓国の原点は冷戦下の反共の砦になることでしたが、どういうわけか、この2カ国はそうした原点も忘れてしまっているのです。

そのように問題が深刻化した中で、具体的にはどうしたらいいのでしょうか?

1つは、今後とも「謝罪」の意味合いは必要だということです。ただし、過去の村山談話や、昭和天皇、上皇さま、今上天皇の「お言葉」がそうであったように、現在の日本の「国のかたち」が何か「悪なるもの」を継承しているとか、「物的な戦後補償を永遠に続ける」といったものではありません。

あくまで象徴的な意味で「最後の世界大戦における永遠の敗戦国」という「役割」を理解しているし、そのような戦後の国際秩序において「信義ヲ世界ニ失フ」ことはしないという理念的な意味合いであり、それ以上でも以下でもないということを明確にすることです。

もっと言えば、戦前戦後の「国体=国のかたち」が連続性を持っている一方で、戦後の努力として「国体が浄化された」日本としては、「現在から過去を否定する視線」と「それでもコミュニティや文化圏として過去とのつながりを持った視線」が交錯することになると思います。つまり「今の日本を肯定することは、過去を否定することである」と同時に「今につづく歴史の流れの連続性を確認するのであれば象徴的な謝罪の姿勢は自然と出てくる」という事になります。

そう申し上げると、そうかもしれないが、それでも「生まれながらにしてそんな面倒な国に生まれたこと」は承服しがたいという世代的な問題は残ると思います。そこは教育の問題であり、国のかたちの「根幹」の部分であるわけですから、狭義の教育だけでなく、世論における広範な議論などを通じて継承して行くべきであると思います。

もう1つは、例えば靖国神社参拝の問題や、歴史認識の問題で「枢軸国の名誉を回復し、戦後の国際社会の前提を否定する」というような印象を、国際世論に与えているのであれば、その誤解を解く努力をするということです。

例えばですが、「人畜無害だとナメられているかもしれないが、例えばアメリカなどからは許されている」から「いいじゃないか」というような「甘え」の姿勢では、やはり中国や韓国だけでなく、例えば欧州諸国や豪州などからも場合によっては外交カードとして切られてしまう「隙を見せる」事になります。日本の国益にとってマイナスは測り知れないのです。

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