二度目はない。京都で限定公開中、千利休と狩野永徳「蜜月」の証

kyoto20170112
 

戦国時代の権力者から寵愛を受けた代表的な芸術家といえば、茶人・千利休と狩野派の天才絵師・狩野永徳。そんな彼らの奇跡のコラボ作品を目に焼き付けるチャンスがまさに今、巡ってきています。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』で紹介されているのは、通常は非公開ながら、3月26日まで特別限定公開されている大徳寺聚光院(じゅこういん)。著者の英 学さんによる襖絵や庭にまつわるエピソードを一読してから訪れる聚光院への旅は、格別なものとなるはずです。

大徳寺聚光院

大徳寺は京都市北部紫野に広がる禅寺で、24もの塔頭(たっちゅう)を持つ大寺院です。その大伽藍(がらん)は創建700年を迎え、臨済宗大徳寺派の総本山でもあります。大伽藍は勅旨門の前から参道を進むと山門、仏殿、法堂が一直線に並んでいます。今回はその先の本堂西隣にある塔頭の一つ・聚光院の魅力に迫ります。

聚光院は戦国の権力者に仕えた茶人・千利休によって千家の菩提寺となり隆盛しました。この場所に狩野永徳の国宝障壁画花鳥図が9年もの修復を終え現在公開されています。

大徳寺の山門・金毛閣の上には千利休の彫像が置かれています。これは利休の切腹の引き金になったと伝えられています。高貴な方も通る建物の上に雪駄(せった)を履いた利休の像があるとは無礼であると時の天下人・秀吉は激怒したと伝えられています。

この大徳寺で時の権力者であった信長や秀吉に寵愛されていた絵師が活躍していました。狩野派の天才、狩野永徳です。聚光院の花鳥図は永徳が利休とコラボして完成させたものだと伝わっています。花鳥図には通常四季が描かれる事が多いのですがこの絵には夏の情景がありません。天才絵師・永徳であっても利休なしでは完成しなかった襖絵なのです。

そのなぞを握るカギは襖絵の前に広がる庭にあります。蜜月の仲だった永徳と利休はその後袂を分かちあうのですが、そこにはライバルの存在がありました。同時代を代表する絵師・長谷川等伯です。今回は秀吉が天下人だった時代に権力者のすぐ近くで活躍した文化人2人にフォーカスしながら聚光院の魅力に迫りたいと思います。

利休切腹の謎

大徳寺の山門の上に彫像があることで分かるように、秀吉が天下人の時代に利休の影響力が増していました。利休が切腹を命じられた理由は秀吉が利休の娘を側室にしようとするが断ったからだとも伝えられています。また、価値のない茶道具を高値で売る利休の商いのやり方や利休が秀吉の朝鮮出兵に異を唱えたことなど色々あったようです。

狩野永徳作国宝花鳥図

聚光院の室中(しっちゅう)の間の三面16枚の襖に大胆な構図で描かれた水墨画の大作があります。東面の襖には生き物のように幹がのたうち枝が伸びる梅の木の下には清流が流れています。梅は満開に咲きその下にオシドリが戯れています。

北面には清流の水面が描かれています。うっすらと雪を被った山に春の清流が勢いよく流れ込んでいる様子が伝わってきます。

左側には鳴き声を上げるタンチョウ鶴と松。地面をわしづかみにするようなこの根元と画面をはみ出すように描かれた幹は狩野派独特の大画(たいが)様式です。

この大胆で力みなぎる画法は戦国の世に生きた武将たちのみなぎるエネルギーと重なり合い広く受け入れられていったことでしょう。

狩野派の大画様式に関しては過去に取り上げました。

400年の美。なぜ狩野派だけが、天下人の心を捉えたか?

松の傍らにひっそりと花が咲いている冬の情景が描かれています。西面の襖絵は北面の松と呼応するように反対側に枝を伸ばす松の木と餌をついばむ鶴が描かれています。

そのさらに左の水辺に水鳥が飛来しています。そこにはいきいきとした花木と鳥の華麗なる世界が広がっています。しかしこの花鳥図には夏の絵が描かれていません季節の配置もバラバラです。

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