【京都案内】龍馬も通った京の花街「島原」の意外な地名の由来

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京都と聞いて思い浮かぶのは、舞妓さんや芸鼓さん。今でも京都には5つの花街がありますが、かつてはもう1ヶ所「島原」と呼ばれる花街が存在していました。今回の無料メルマガ『おもしろい京都案内』では著者で京都通の英学(はなぶさ がく)さんが、その島原について詳しく解説するとともに、「おもてなしの心」を学ぶ観光名所も紹介しています。

大夫が活躍した花街・島原

京都を代表するイメージの1つに花見小路や祇園白川の石畳を行き交う舞妓さんや芸鼓さんの姿があります。京都の花であり、妖艶な魅力を引き立てています。

京都の舞妓さん、芸鼓さんは5つの花街のどこかに所属しています。祇園甲部、宮川町、先斗町、祇園東、上七軒の五花街です。上七軒だけは北野天満宮の近くと少し離れた場所にありますが、それ以外の花街は四条大橋を東西に挟んだエリアに点在しています。これらの花街は秀吉の時代に始まったと伝えられていますのでもう400年以上の歴史があります。江戸時代に栄えた江戸の吉原とは異なり、京都ならではの独自の形態を保ちながら発展してきました。

京都の花街はかつて五花街以外にもう一ヶ所ありました。それが今日ご紹介する島原という花街です。この場所は何度か移転を繰り返し、今では西新屋敷という場所に落ち着きました。

島原はかつて幕府から三度移転を強いられ、現在地に引っ越してきたと伝わります。その時の慌ただしい移転の様子が、その数年前に起きた島原の乱を思わせたことから「島原」と呼ばれるようになったそうです。江戸時代初期、17世紀前半の話です。

こちらは主に皇族や貴族を中心にもてなした花街で、当時女性に与えられた最高の位・大夫を授けられた者が活躍した街です。今でも大夫は存在するものの、ほんの1、2名ほどです。

島原の置屋兼お茶屋に輪違屋(わちがいや)があります。創業1688年、320年以上の歴史を誇り、今も営業を続ける島原唯一の置屋です。輪違屋には今も大夫が在籍しています。お茶屋は揚屋(あげや)のような場所とは違い、直接料理はせずに、仕出し屋などから取り寄せをして宴会を行う場所です。かつて島原で栄えたもてなしの文化を今に伝える揚屋「角屋(すみや)」をご紹介しましょう。

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