京都を1200年守り続ける4匹の動物と、清水寺の片隅にある悲しい物語

 

どこだか分かりますか? 日本人なら誰でも知っている「清水寺の舞台」で有名な清水寺です。清水寺は日本人なら誰もが知っている有名な場所ですが、その由来が京の都の鬼門封じに通じていたことを理解して訪れる人はあまりいないのではないでしょうか?

清水寺の境内にある「音羽の滝」のそばに地主神社(じしゅじんじゃ)があります。近年は「縁結びの神様」として有名ですね。この神社は、謡曲「田村」にも謡われる場所ですが、この謡曲に出てくる地主神社の桜、御車返しみくるまがえしの桜は4月第3日曜日の桜祭の時に御所に奉納されるそうです。

御車返しは一本の木から八重と一重の花を同時に咲かせるとても珍しい桜の木で、江戸時代初期、後水尾(ごみずのお)天皇がここの桜があまりにも美しいので、もう一度愛でようと御車を引き返させたと伝わる名桜です。

京都には御車返しは2種類あって、品種は全く一緒ですが、車を返した人がそれぞれ違います。ひとつは後水尾天皇が御車を引き返してまで見たこの地主神社の御車返しで、もうひとつは平安時代に桓武天皇の皇子・嵯峨天皇が御車を引き返えさせたと伝わる京都御苑内の御車返しです。

地主神社の御車返しは1,200年以上経った現在もなお、都の鬼門封じのために涙を飲んで死んでいった罪のない蝦夷たちの鎮魂の献花となって京都御所に納められているのです。

坂上田村麻呂は死後、嵯峨天皇の命により山科の地に葬られました。田村麻呂は、死した後も甲冑に身をおさめ、太刀を身にまとい、弓矢を持ち、蝦夷の地、東北を睨んで今も土の中で仁王立ちしていると言われています。都の鬼門封じのため永遠の眠りについてなどないのです。

清水寺は都の鬼門封じのために犠牲となった蝦夷たちへの鎮魂の寺として都が遷された3年後の797年に建立され、今もなおその祈りは続いています。

今から20年ほど前の1994年、平安遷都1,200年紀が京都で開催された時、清水寺他計17ヶ所の京都の名所が世界文化遺産に登録されました。その時、蝦夷の首長と副首長だったアテルイとモレを追悼する石碑が清水寺の境内の片隅に建てられました。彼らは罪のない蝦夷を必死に守りながら前線で戦いながらも田村麻呂から和解を持ちかけられ捕らわれ、最後は朝廷の命令で処刑されてしまいました。

京の都が1,200年以上繁栄したことは、当時都から見て鬼門の方角に住んでいるというだけの理由で多くの人達が犠牲になったということを抜きにしては語れません。いつか皆さんが清水寺を訪れる時、地主神社で「恋みくじ」を引く時は、せめてそのような悲しい過去があったことを思い出してあげて下さい。

image by: Wikimedia Commons

 

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