参院選で「戦後」が終る。憲法改正草案を読んでわかった危険性

 

憲法改正が祖父、岸信介から引き継いだ安倍晋三の悲願であることはよく知られているが、そもそも彼の憲法観は、根本から間違っている。

平成26年2月3日の衆議院予算委員会で畑浩治議員(当時)の「憲法とはどういう性格のものだとお考えでしょうか」という質問に安倍首相はこう答えた。

「いわば国家権力を縛るものだという考え方がある。しかし、それは王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、いま憲法というのは日本という国の形、理想と未来を、そして目標を語るものではないかと思う」

絶対王政時代王権を縛るために憲法がつくられたというのは全くの勘違いである。

英国のマグナカルタは、貴族層が王の課税権を縛ったものだが、これは憲法とはいえない。成文はなくとも英国に立憲体制が確立されるには名誉革命を待たねばならなかった。

フランスは、フランス革命のあと、すなわちルイ王朝の崩壊後に憲法がつくられた。アメリカはもちろん独立戦争の後である。

神でも王でもない、間違いをおかしやすい普通の人間に統治権力を託すとき、絶対にこれだけは守ってもらわなくてはならないルールを定め、いわば覚書をつくった。それが憲法ではないか

安倍晋三に、祖父の岸信介より、政敵だった石橋湛山に目を向けよと言いたい。

石橋は大正10年、「大日本主義を捨てよ」「植民地を放棄せよ」と、自らが主幹をつとめる東洋経済新報の誌上で説いた。

欲が戦争という苦しみを生む領土への妄執を棄て自由と平和に生きよ─仏教的な生の知恵と西欧のヒューマニズムがみごとに調和した簡明な主張であった。

これにくらべ、戦後の自由と平和を所与のものとして享受してきた安倍晋三の政治思想はなんと下品な欲望に満ちていることか

石橋は戦後、いち早く靖国神社廃止を主張、やがて政界に入り、保守合同後の1956年、自民党総裁選で岸信介を破り、首相に就任したが、軽い脳梗塞で倒れ、わずか2ヶ月で退陣した。

米政府にしてみれば、気骨ある理想主義者、石橋の退場は歓迎すべきことであっただろう。その後を継ぎ、政界復帰後4年で首相となった岸は、反共の砦として米側の期待を集めた。

戦後日本に急拡大した左翼運動を押さえ込むために、米政府は右翼勢力を味方に付けるべく笹川良一や児玉誉士夫ら大物右翼を巣鴨プリズンから釈放した。

そのとき同時に解放されたのが岸だった。

満州国統治の実力者としてA級戦犯にされた岸が、かつての敵国に統治能力を買われ、釈放と引き換えに、親米反共のタカ派として日本政界に躍り出たのだ。

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