「樺太は島だ」。命を賭して証明した江戸の探検家・間宮林蔵の生涯

 

北海道の北に位置する樺太島(ロシア名:サハリン)。遥か昔、江戸時代にこの樺太が「島」であるという事実を発見した日本人がいました。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で紹介されているのは、徳川家に仕えた探検家・間宮林蔵の功績。蝦夷地の各地を荒らし回っていたロシア艦に捕らえられる危険も厭わず、そして度重なる悪天候にもめげず、成功するまでは帰国しないと断言した、鋼の意志を持つ探検家の執念の物語です。

間宮林蔵の樺太探検

成功せぬうちは、帰ってくることはいたしませぬ。もしも、失敗に終わった場合には、樺太に残り、その地の土になるか、それともアイヌとして生涯を終えます。再びお眼にかかれるとは思いませぬ。お達者でお暮らし下さい。

間宮林蔵が見送りに来た警備役の津軽藩兵指揮格・山崎半蔵にこう言うと、山崎は言葉もなくうなづいた。その眼には、再び生きては帰れぬかもしれない者を見送る悲痛な光がうかんでいた。

文化5(1808)年4月13日、蝦夷地(北海道)最北端の宗谷の地。海はおだやかで空は晴れていた。林蔵はここから18里71キロの海を渡って樺太に出発する所であった。前年、蝦夷地の各地を荒らし回ったロシア艦が再びやってくると予告していた時期で、もし発見されれば捕らえられる恐れがあった。また樺太には最南端の白主にこそ会所が設けられ、警備の一隊が駐在していたが、それより北は地理も分からず、粗暴な山丹人が大陸側から交易のために往来しているようだった。

この北辺の地理と住民の状況を明らかにしてロシアの南進に備えようというのが、間宮林蔵の樺太探検の目的だった。

蝦夷で生きるには

林蔵は、安永9(1780)年、常陸国(茨城県)筑波郡の農家に生まれた。子供の頃から土木工事が好きで、堰とめ工事の現場に出入りしているうちに、利発さを買われて幕府の普請役雇・村上島之允の使い走りとして働くことになった。村上が各地を測量して地図を作製するのに従って、林蔵は測量技術と健脚を身につけた。

村上が蝦夷地での仕事を命ぜられると、林蔵も一緒について行った。しかし冬の厳しい寒気と野菜不足で足がむくみ、体調を崩した。土地の人から、蝦夷人アイヌは魚と昆布を食べるので病むこともなく冬を越す、と教えられ、それに従った所、むくみもとれて体調が回復した。

これを機に林蔵は、アイヌと同じ生活をしなければならぬ、と知り、アイヌ語を習い、しばしばアイヌの家を訪れて衣服・家屋・狩猟・漁獲・旅行などについて詳しく調べた。

ロシア来襲

林蔵は村上の助手として測地に従事していたが、文化2(1805)年、25歳のおりに現在の北方領土である国後島から択捉島で海岸線の地図を作り、道路を開くようにとの幕命を受けた。

文化4年4月、林蔵が択捉島に移って仕事をしている最中に2隻のロシア軍艦がシャナ湾の会所を襲った。文化元年9月にロシア皇帝の命を受けて長崎港に入港した侍従レザノフは日本との交易を求めて6ヶ月も待たされたが、すげなく断られたため、怒って武力で威嚇しようと択捉島を襲ったのだった。

会所には230名もの兵がいたが、役人たちは上陸したわずか十数名のロシア水兵に恐れをなして、ろくに戦いもせずに、退却してしまった。林蔵は抗戦を主張したが、上役に退却を命ぜられ、不本意ながら従った。

ロシア艦が去った後、林蔵も会所の役人たちとともに、江戸に送られ、厳しい取り調べを受けた。江戸市中では彼らに対する憤りと蔑みが強かった。幸いにも林蔵は抗戦を強く主張し、また退却後も密かに現地に戻ってロシア艦の動きを探ろうとした働きを認められ、唯一人「お咎めなし」との申し渡しを受けた。他の役人たちには「不届きの至り」として、免職、家屋敷没収などの処罰が行われた。

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