「樺太は島だ」。命を賭して証明した江戸の探検家・間宮林蔵の生涯

 

輝かしい栄光

林蔵は松前に戻ってから、旅行中の日記、野帳をもとに紀行文「東韃地方紀行」、および樺太の地誌「北夷分界余話」をまとめ、さらに樺太と東韃靼の地図「北蝦夷島図」を作成した。地図は詳細をきわめ、つなぎ合わせると縦6尺(18メートル)、横2.7尺(8メートル)に及んだ。翌文化7(1810)年11月、幕府への報告のため、林蔵は江戸にのぼった。

単身で樺太北部から東韃靼まで探検をしたという話は、日本国内で大きな話題になっており、江戸までの各地で藩士や商人たちにもてなしを受け、宿を提供されることも多かった。林蔵が提出した地図と紀行文は、幕府の老中たちの間でも大評判であった。厳しい旅で健康を害していたため、林蔵がお役御免を願い出ると、加増の上生涯特定の仕事をしなくとも良いとの沙汰があった。3年前に江戸にのぼった際には、林蔵はロシア艦来襲時の敗走者という汚名を着せられていた。今回はその時とはうって変わって、輝かしい栄光に包まれているのを感じた

林蔵の樺太探検は、1832年にシーボルトが出版したニッポンの第一巻で欧米社会に紹介された。シーボルトは林蔵が樺太が島であることを発見した世界最初の人物であると記し、その証拠に日本滞在中に入手した林蔵の地図を挿入した。さらに東韃靼と樺太の間の海峡を、間宮海峡と名付けた。これによって林蔵の発見が世界地図の上に永久に残ることになった。

林蔵の探検はわが国の国益にも寄与をなした。40余年後の嘉永6(1853)年に始まったロシア使節プチャーチンと勘定奉行・川路聖謨(としあきら)による日露国境策定交渉において、ロシア側は樺太がロシア領だと主張した。川路が、林蔵が樺太ではただの一人もロシア人を見かけなかったという事実をもって反論すると、プチャーチンはおおいに狼狽した。結局、国境交渉は、樺太の国境はこれまで通り定めないが、嘉永5(1852)年までに日本人と蝦夷アイヌ人が居住した土地は日本領とする、という実質的には日本側の主張で決着したのである。

文責:伊勢雅臣

 

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
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