「樺太は島だ」。命を賭して証明した江戸の探検家・間宮林蔵の生涯

 

樺太は半島か?

江戸に送られる前に林蔵は函館の奉行所にロシアへの潜入調査という大胆な上申書を提出していた。敗走者という汚名をそそぐためにも、北辺の防備強化という国益のためにも、という切羽詰まった気持ちから書き上げたものだった。「お咎めなし」と決定した後、この上申書が取り上げられ、林蔵は樺太北部の探検を命ぜられた

当時、完成しつつあった世界地図で樺太は唯一空白部分として残っており、アジア大陸の東韃靼地方につながる半島だろうと推定されていた。イギリス、フランス、ロシアの艦隊がそれぞれ樺太の西岸を北上して確認しようとしたが、水深が数メートルと浅くなり、やはり半島だろうとして、途中で引き返していた。

林蔵は、宗谷に勤務していた調役下役・松田伝次郎とともに、樺太に渡った。冒頭の「成功せぬうちは帰ってくることはいたしませぬ」と悲壮な言葉を残したのは、この時のことである。

4月17日に数人のアイヌ人を案内役として、小舟で北上を開始。途中、弓矢や槍をもった住民に危うく殺されかけたりしながら、6月21日には対岸にアムール河黒竜江河口が望める地点に到達した。そこから先は樺太と大陸との間は広がっているようで、どうやら樺太は島のように思われた。海面は海草に覆われ、小舟ではそれ以上進めなくなった。舟をこぐアイヌたちは「恐ろしい。帰りましょう」と震える声で言った。

松田もこれでほぼ役目を終えたとして、帰投を決断した。林蔵は不満だったが、年齢も役職も上の松田に従うしかなかった。宗谷に戻った林蔵は報告書を作成すると、ただちに再調査の許可を求めた。自分一人なら危険を冒してもさらに奥地に行けたはずだ、という思いが強かった。

アムール河を望む

7月13日、宗谷を再出発し、単身で樺太に渡った。前回の危険な探検の有様が伝わっており、案内人に応じてくれるアイヌを探すのに苦労した。なんとか6人のアイヌを雇い入れて、前回よりもやや大きい舟で8月25日に北上を始めた。

9月3日、400キロほども北のトッショカウという土地についたが、途中で山丹人に食料を奪われ、また寒気が厳しくなって、海が凍結すれば魚もとれなくなる。アイヌたちも「南に帰りたい」と言い出した。やむなく林蔵は引き返すことを決断した。途中まで舟で南下したが、海が荒れていたので、1ヶ月以上かけて氷雪に覆われた陸路を200キロも南下し、樺太南部のトンナイに戻った。途中、吹雪になると雪洞(ほら)を作り、天候の回復を何日も待った。

トンナイで年を越して1月29日、林蔵は再び、渋るアイヌたちを説得して、北に向かった。今度は凍結した海の上を歩いていく。4月9日、ノテトという地に着いた。最南端の白主からは500キロ以上も北である。ここには60人ほどのギリヤーク人と二人のアイヌ人男女が住む集落があった。アイヌ人が通訳をしてくれて、酋長のコーニが大陸にある清国領の役所からカーシンタ(郷長)という役人の資格を与えられている事を知った。

コーニは山丹人の作った舟を貸してくれた。そこから先は波も荒く潮の流れも急なので、山丹舟でなければ進めないという。5月8日、ようやく流氷が去って、ノテトを出発。海は次第に狭くなり、対岸の雪に覆われた大陸の丘の連なりが間近に白く輝いている。さらに進むと、海が少しづつ広がり、大陸側に大きな河口が見えた。アムール河である。

この地の北は荒海しかない

2日後、ノテトから110キロ北のナニオーという地に着いた。ギリヤーク人が数家族住んでいる。コーニがつけてくれた通訳を介して聞いてみると、この地の北は荒海しかない、という。確かにアムール河の河口を過ぎると、潮流は二分し、北にも流れていた。これは北側が半島で遮られているのではなく、広い海が開けていることを示している

歓びが胸にあふれた。林蔵は世界で初めて樺太が島であることを確認したのだった。さらに一歩進めて、舟で樺太の北端を回り、東海岸を南下して出発地に戻りたかった。しかし、ギリヤーク人はこう言った。

海は絶えず怒り、波がさかまいている。舟など出せば、たちどころにくつがえり、砕け散ってしまう。

丘に登って北方を見渡すと、広い海には一面に白波が湧いて、怒濤が荒れ狂っている。たとえ山丹舟でもひとたまりもないだろう。林蔵はあきらめてノテトに戻った。酋長のコーニは、「よくそんな所まで行ったなと驚きの声をあげた

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