「樺太は島だ」。命を賭して証明した江戸の探検家・間宮林蔵の生涯

 

「大陸に連れて行ってくれ」

樺太が島であることは確認できたが、林蔵はさらにこの地がどのように清国に支配されているのかを知りたいと思った。北辺の防備を固めるには、この情報がぜひとも必要だ。そこでコーニ酋長にしばらく村に滞在させてくれと頼んだ。

林蔵は釣りや薪作りを手伝って、コーニから食料を分けて貰った。同時にギリヤーク語を学んでコーニからこの地の状況をいろいろ聞き出した。海を隔てた東韃靼(だったん)のデレンという地に清国の出張役所があり、コーニも村の代表者として定期的に貢ぎ物を持って行っているという。その地には山丹人、ギリヤーク人、オロッコ人など多くの種族が混住しており、すべて清国の支配下にある由。

林蔵は、清国とロシアの国境がどうなっているのか調べたいと思い、コーニに一緒に大陸に連れて行ってくれ、と頼んだ。コーニは、林蔵の顔からすぐに異国人と判り粗暴な山丹人に必ず殺されてしまうだろう、と断った。しかし林蔵は言った。

あなたの好意を嬉しく思う。しかし、私は、死を覚悟している身だ。あなたの言われるとおり、東韃靼へ入れば殺されるかも知れないが、私は悔いぬ。ぜひ、私を連れて行って欲しい。

コーニは無言で林蔵を見つめ、長い沈黙が続いた。それから息をつくように言った。「それほどまでに言うなら連れて行こう

突如出現した大集落

6月26日、10メートルほどの山丹舟にコーニと林蔵を含めて8人が乗り込み、貢ぎ物や交易品を積んで、東韃靼に向かった。6月なのに風が驚くほど冷たく、濃霧が立ちこめて、衣服が濡れた。林蔵は持参した羅針で西を示した。14キロほど進むと、ようやく霧の中に陸影が現れた。コーニが「東韃靼のモトマル岬だ」と言った。

近くの湾に舟を着け、そこから舟をかついで2キロほどの山を越えると、アムール河に出る。そこから数十キロも河を遡って、ようやくデレンに着いた。そこには無数の小屋に囲まれて、巨大な柵の中に奇異な建物が建っていた。「清国の出張役所だ」とコーニが教えてくれた。荒涼とした大陸に突如出現した大集落に林蔵は夢を見ているようだった。

コーニとともに建物の中に入ると、絵で見た清国人と同じ服装をした役人たちがいた。林蔵が日本から来たと言い、漢字を書いて見せると役人たちは驚いた。清国以外の野蛮人が文字の読み書きができるとは信じられないふうだった。「日本はどの地で清国に貢ぎ物をしているのか」と聞かれて、「貢ぎ物はしていない。長崎の地で貿易をしているだけだ」と答えると、さらに疑わしそうに首をかしげた。林蔵が「ロシアとの国境はどこか」と尋ねると、「国境などあるはずがない。ロシアは清国の属国だ」と答えた。

しばらくデレンの地に留まっている間に林蔵は周囲から情報を聞き出した。清国はこの地に大軍を出して各種族を降伏させ、支配していたが、ロシアが進出して攻防を繰り返した。結局ロシアは敗退し、1689年に結ばれた条約でこの地方から完全に手を引いたという。120年前の事であった。林蔵はデレンで二度ほど山丹人に取り囲まれて暴行されかかったが、危うい所をコーニたちに救われた。

貢ぎ物と交易が終わると、林蔵の提案でアムール河を舟で下って河口まで帰ることとした。数日かけて河を下り、河口に到着すると樺太の北端が見え、その先には果てしない海が広がっていた。林蔵は樺太が島であることを自分の目で確認したのだった。8月8日にノテトに帰り着いた。3日後に遊猟で南下するギリヤーク人の舟に載せてもらい、9月15日、樺太最南端の白主の会所に帰着。再出発してから1年2ヶ月が経っていた。

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