異常犯罪に目を戻せば、そこへの好奇心を抱えている人は少なからずいて、理性と利益がそれを抑えているに過ぎません。
理性とは常識や愛情で、利益とは現実的な収入はもちろん、家族や恋人、友人知人から受ける愛情と評価も利益です。
さて、このどちらもない人物にとって、今回の執拗でいて詳細な報道は「誘惑」となります。人を殺してもバレない、と。
遺体の損壊についても、「ネットで調べた」との供述を垂れ流しにします。猟奇犯罪ですら国民の知る権利かもしれませんが、小中学生でもたやすく視聴できる、朝の情報番組や夕方のニュース(事実上のワイドショー)で、詳細な手口を報じるやり口に首をひねります。
いわゆる「バラバラ殺人」と呼ばれる遺体損壊事件は、昭和時代からありましたが、身元特定を避ける為や、強度の怨恨などの理由がありました。
最近目立つのは「処理」としてです。次の殺人に備えるためや、遺体の保管場所に困ってと言うものです。そして犯行が明らかになるたびに手口も公開され、ネットに保存されていき、次の機会(犯罪)に「ネットを見た」との犯人の証言を既存マスコミが報じることにより拡大再生産されています。
これらの報道姿勢は、いまに始まったことでありません。20世紀のころから、猟奇的犯行が発生するたびに詳細な手口を、ワイドショーはつまびらかに報道し、一方で報道に対して疑問の声が挙がるのですが、冷静な検証も検討もされないまま放置されつづけてきました。こんなところにも、既存マスコミに「自浄作用」がないことを確認できます。