客の声から新レシピが続々~「魔法の鍋」が炊飯器に
驚きの光景はオフィスにもあった。顧客対応のコールセンター「オーナーズデスク」。クレームや修理の問い合わせかと思ったら、オペレーターの辻尾恵美子が受けたのは「バーミキュラで離乳食を作れないか?」という相談だった。
席を立った辻尾の隣にはキッチンが。1本の電話から試作が始まった。作ったことのない料理の相談を受けたら、すぐにやってみる。そのために専属シェフまでスタンバイしているのだ。
シェフはまず野菜を無水調理。それを濾してスープをとった。野菜成分100%の離乳食だ。濾した野菜を潰して混ぜてペースト状にしてもOK。辻尾が早速電話で返答する。
こうしたお客の声を聞く姿勢から、画期的な商品も生まれている。それが「バーミキュラ・ライスポット」。鋳物ホーロー鍋とIH調理器を合わせた世界に一つだけの炊飯器だ。
実は「『バーミキュラ』でご飯を炊くと、ふっくらおいしい」という声がたくさん届いていた。その一方で「火加減が難しい」という声も。そこで「誰でも失敗せずに想像を超えた味を出せる調理器具になると考えついたんです」(智晴)。
IH調理器に最適な火加減がプログラムしてあり、ボタンひとつで鍋の底と側面から加熱を開始。すると鍋の中は、釜戸の釜と近い状態になり、中で米が激しく踊るのだ。
最先端の家電を揃えた東京・世田谷区の「二子玉川 蔦屋家電」でも「ライスポット」は話題沸騰。お客に試食してもらうと、反響が凄いと言う。
プロの料理人もこぞって使い始めている。東京・杉並区の「器楽亭」は気さくに本格的な和食が楽しめる知る人ぞ知る居酒屋割烹。何冊もグルメ本を出している食通芸人、アンジャッシュの渡部建さんもブログで絶賛した店だ。
そのカウンターの奥に「ライスポット」が。ご主人がその味に惚れ込み、半年前にガス釜から交換。するとお客がこぞって褒め出したと言う。店主の浅倉鼓太郎さんは「特に白米が評判いいですね。米の甘味、うま味が最大限に出ている。感動しました」と言う。
「ライスポット」(8万6184円)は、発売から1年で5万台以上が売れた。その結果、「バーミキュラ」の発売以降、ゆるやかに伸びてきた売り上げが一気に3倍に増えた。
「世界中で販売できるすばらしい鍋になると思ったので、諦めなければ最後は必ず成功する、と」(邦裕)
下請けからメーカーへ~愛知ドビー苦闘の歴史
愛知ドビーはもともとドビー機を作っていた会社だ。ドビー機とは、繊維工場の機織り機の動力源となる機械だ。愛知ドビーは1936年、兄弟の祖父、土方司馬一が創業。社員70人でドビー機を作っていた。
当時の自宅は工場の隣。土方兄弟は工場の職人たちによく遊んでもらった。
「キャッチボールをしたりサッカーをしたり、小さい頃は毎日のように遊んでもらって、他人のような気がしないわけです」(邦裕)
やがて繊維産業が下火になると、愛知ドビーは船舶や建設機械の部品を作る下請け工場に転換。両親の希望もあり、邦裕は後を継がず豊田通商に就職。為替ディーラーとして、エリート街道を突き進む。
しかしバブル崩壊後、愛知ドビーのような下請け工場はますます厳しくなっていく。
「昔、遊んでくれたスタッフが少しずつ減っていくのは寂しい思いをしました。僕が会社に入って貢献することによって、食い止められるようになるんじゃないか、と」(邦裕)
邦裕は世話になった職人たちがいる工場を守るため、安定した職を捨て、2001年、愛知ドビーに入社する。しかし、会社の状況は想像以上に悪化していた。売り上げ2億円に対し、負債が4億円以上という債務超過になっていたのだ。
その頃、弟の智晴はトヨタ自動車で経理の仕事に就いていたが、彼もまた職人たちのいる工場が気になっていたと言う。
「名物工場長がいたのですが、『クニさんはどうしているんだろう』と思ったり。『やりたい』という思いもあったんでしょうね。兄と一緒に油まみれでやってみるか、と」(智晴)
兄に遅れること5年、智晴も愛知ドビーに入社。二人は技術を覚えるところから始め、やがて工場にあった全ての機械を使いこなせるようになった。ガムシャラに下請け仕事をこなし、業績を改善させた。しかし、労働コストの安い海外に仕事をとられることも多く、受注は安定しなかった。
「注文を取っても、ちょっと量が増えると海外調達に切り替えられたり」(邦裕)
「『中国では3分の1の価格だから3分の1でやってよ』とよく言われました。無理なんですよ、どう考えても」(智晴)
このままでは未来はない。そんなことを考えていた智晴は、2007年のある日、本屋で一冊の本と出会う。それはフランス製鋳物ホーロー鍋を使った料理本。「料理が劇的においしくなる」と書いてあった。
「鋳物の鍋ならうちでも作れる」と思った智晴は、早速その鍋を購入し、野菜スープを作ってみた。驚きのおいしさに、兄、邦裕の元へ走った。
「メーカーになると自分たちで市場を開拓できるし、値段も決められる。それなら1回やってみようか、と」(邦裕)