彼らが最も期待していることは、「子どもに高等教育を受けさせて、日本の企業に就職させたい、エリートにしたい」ということなのです。それゆえに、彼らの一番の悩みは、子どもの教育環境、学校文化の違いにあります。
外国人の父母は、保育園、幼稚園時代から、日本の文化に馴染もうと努力しています。けれども、一見して分かる肌や髪の色の違いからくる「差別的発言」を経験していない人は誰一人いないのです。これは子どもの世界でも同じです。むしろ子どものほうが辛辣な言葉の暴力にさらされています。
子どものいじめの問題が起きると、父母が担任教諭に相談をします。ところが、学校に相談してみて、外国人の最初の衝撃は、「いつまで待っても返事がないこと」にあります。
学校は必ずしも何もしていないわけではありません。しかし、返事がなければ、何もしていないのと同じです。
世界のそれぞれの文化的な背景がわからなければ、相手を理解できないのです。教育では、相互理解、多文化共生とお題目的には言うものの、実際には、理解が進んでいないのが現状で、日本の学校も、相互理解の努力が足りません。
「いや、そんなことはない。わが市では、通訳もそろえているし、学校から渡す文章は必ず母国語にしている」という校長もいるでしょう。違うのです。外国語の行政文書を渡すだけでは不充分です。実際に外国人の子どもや父母と会話するのは教師です。教師がその基礎教養ともいえる外国文化、歴史、宗教を深く知っていること、それに基づいた生活習慣などを理解していることが必要なのです。
この相互理解がないために、ある日突然、学校に、弁護士や外国人支援NPOが登場するといった場面になることもあります。日本人の美徳である、「遠慮する」、「信じて少し待ってみる」という、相手の都合をおもんばかる態度も悪いことではありませんが、こと「いじめ」に関しては、外国の方々の対応も見習っても良いかもしれません。
ではなぜ、日本では、いじめ等について「判断しないで先延ばしにする」のでしょうか。これは、「責任をとりたくない」、「自分が担当の時に、ケチをつけられたくない」、「自分の出世のじゃまにしたくない」、という「日本組織に多いパターン」に、はまっているのです。「解決しました」という加点主義ではなく、「失敗した」という減点主義をさける傾向が強いということです。世界のスタンダードは実績主義です。
この「判断しないこと」について、特に学校教育現場では、「タイムオーバー」という伝家の宝刀があります。「沈黙」を保って、やり過ごすことで、事態が収束し、終結するというものです。特に、3学期では、あと少し待てば先生もクラスも変わります。事情を知っている先生を、転勤させることもできます。さらに、子どもが卒業してしまえば、「終わり」です。