ひいきしたから高得点だったのか?
改めて感じるのは「何かを評価するということの難しさ」である。野球のように打率や打点や防御率や盗塁数や球速など比較するときの分かりやすい数字がたくさんあるものであれば、比較的、話は進めやすいが、漫才の場合、数値で表現できるのは「漫才に要した時間」くらいである。面白いのか?面白くないのか?でさえ、人それぞれで微妙に変わってくることが多いが、時に笑いのツボは大きく変わってくる。「100人中100人が文句なしで面白いと思える漫才」はおそらく無いはず。響かない人がいても不思議はない。
個人的な話をするとミキ(の兄貴)のような「うるさい系の漫才」はあまり好きではない。また、スーパーマラドーナ(の田中さん)のような「表情であったり、動きの面白さや特異さで笑いを取ろうとする漫才」もあまり好きではない。なので、仮に漫才を審査する立場になったときはミキやスーパーマラドーナの漫才を高く評価することはほぼないと思うが、ミキやスーパーマラドーナの漫才を面白いと思う人が少なくないことは理解できるし、ミキやスーパーマラドーナの漫才を高評価する審査員がいることも理解できる。
漫才のスタイル的に好みではないので彼らの漫才をたくさん見せられてもほとんどの漫才を低く評価してしまうと思う。彼らのことを面白いとは思わないが「イコール嫌いなのか?」というとそういうわけではない。「漫才として高評価するのか?否か?」と「コンビやグループのことを好きなのか?嫌いなのか?」は全くの別問題である。きっちりと分けて評価をしているつもりであるが、毎度のように低評価したら一定以上の割合の人からは「嫌いだから低評価しているのだろう。」と批判されるだろう。理不尽な話である。
このあたりの部分はサッカー選手を評価するときも同じである。「人を評価するのは本当に難しい。」と思う。「この人は自分が好き・嫌いで他者を評価しているので他人も好き・嫌いで他者を評価しているはずと思い込んでいるんだろうな…」と思うケースは多々ある。ネット社会になると「どのような評価を下すのか?」で評価を下す側の人間もそれ以外の人からジャッジ能力を評価されることになるが、好き・嫌いで評価を下すと自分自身の価値や評価が下がってしまう恐れがあることは誰にでも理解できるだろう。
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