令和の世はどうなる。「55年体制」を葬れなかった平成野党の万死

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前回の記事「間違いだらけの30年。米の尻を追って世界で孤立した日本の平成」では、「ポスト冷戦の国際秩序づくりの模索」という観点から平成を振り返り、米国を追従し続けてきた日本を痛烈に批判したジャーナリストの高野孟さん。そんな高野さんは今回、自身のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』で、視点を国内政治に据えこの30年を改めて見返し、本来の意味での政権交代を実現したとは言い難い非自民勢力の不甲斐なさを指摘しています。

※本記事は有料メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』2019年4月1日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会にバックナンバー含め初月無料のお試し購読をどうぞ。

プロフィール高野孟たかのはじめ
1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。2002年に早稲田大学客員教授に就任。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。

平成の30年間を振り返る・その2──「政権交代のある政治風土」をめざして

平成の始まりは、これまた偶然ではあるけれども、「55年体制が終わりつつある中で政治改革が叫ばれ始めた時節と重なり合っている。しかしそれから30年を経て、今日依然として「安倍一強」政治がまかり通っているということは、平成の政治改革は道半ばとも言えないほどの挫折の連続だったということである。

死に切れなかった「55年体制」

リクルート事件が発覚したのは昭和63(1988)年6月で、以後、政財官大物の「利狂人(りくるうと)」たちの実名と所業が次々と明らかになる中で、平成が明けた。2月にはリクルートの江副浩正会長が逮捕され、その激震の中で竹下登首相は辞任した。後継の宇野宗佑首相も、女性スキャンダルを暴露された上、4月の消費税導入の影響も重なって7月の参院選で自民党は惨敗し、わずか2カ月で辞めた。その後も、92年8月には佐川急便からの5億円ヤミ献金事件で金丸信自民党副総裁が辞任するなど、金権腐敗の深まりに歯止めがかからなかった

金丸氏が会長を務めていた経世会(竹下派)から「政治改革」の狼煙が上がったのは、その意味で必然で、92年12月に同派の小沢一郎=元幹事長や羽田孜=元蔵相らが派閥を割って出て、小選挙区制の導入を主張して93年春の「政治改革国会を主導した。それが同年6月の宮沢内閣崩壊、羽田氏らの新生党結成、8月の細川非自民連立政権の誕生へと繋がった。

マスコミは「55年体制の崩壊と大いに騒ぎ立てた。確かに自民党がほぼ常時、衆参両院で過半数を維持して一党支配を続けて来た38年間がここで終わり、以後のどの自民党政権も連立という形をとらざるを得なくなったという意味では、画期的だったには違いないが、それ以後の26年間を振り返れば、細川・羽田政権の10カ月と民主党政権の3年3カ月の計4年間を除く22年間はずっと自民党が政権にいて、その直近の6年3カ月は「安倍一強」体制が続いていて、つまり55年体制は躓いただけで死ぬことはなかったということである。

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