令和の世はどうなる。「55年体制」を葬れなかった平成野党の万死

 

取って代わるべき野党の未成熟

その最大の原因は、「政権交代のある政治風土」の涵養を目指して「政治改革」を進めるのだと誰もが口にしながらも、実際には自民党に代わって政権交代を担えるだけの野党がまだ形成されていなかったことである。

細川政権は、俄づくりというか、政治改革の推進だけを一致点に8会派が急ぎ連合して自民党に代わる受け皿を作っただけで、何ら体系的な理念や政策を用意していたわけではなく、組織的にもまさに寄り合い所帯で、それを小沢一郎=新生党代表幹事と市川雄一=公明党書記長の「イチイチ・コンビ」が強引に取り仕切っていた。その弱みを突いて自民党が表からも裏からも攻め立てて、細川氏とその後継の羽田政権を僅か10カ月で葬った

この94年6月が大きな分かれ目で、

  1. 社会党の山花貞夫=前委員長、赤松広隆=前書記長、仙谷由人氏はじめ「ニューウェーブの会」などの改革派は、社会党・さきがけが政権復帰して第2次羽田政権を押し立て、政治改革の旗を掲げ続けることを主張し、これこそが本筋だった
  2. それに対して自民党は亀井静香氏を中心に、社会党の村山喜一=委員長を担いで「自社さ」政権を作り、村山氏を隠れ蓑にして裏口から政権復帰を果たすという奇策に出た。これを何としても阻むことが大事だったが
  3. 小沢一郎氏は自民党から渡辺美智雄氏とその同調者を離党させて「渡辺政権」を作るという何の意味も成算もない工作に走って、結果として亀井工作の成功を助けてしまった

これで55年体制は死を免れたのである。

新進党から民主党へ

小沢氏にはもう1つ、致命的な戦略ミスがあって、それは「新進党」である。村山政権発足によって野党となった新生党、日本新党、民社党、公明党などは、その年12月、衆参両院で217人という大勢力を以て「新進党」を結成した。小沢氏が党名を「保守党」とすることにこだわったことが示すように、この時の小沢氏の路線は新保守主義であり、マスコミはこぞって「保守2大政党制の時代来たる!」と囃した。

私は、旧保守と新保守のどちらかを選ぶ2大政党制などいうものがありうる訳がなく、2大政党制と言う以上、「保守vsリベラルの構図でなければならないという立場で、与党の社会党やさきがけの中の改革派の間でもそう考える人々が少なくなかった。それが、95年2月の鳩山由紀夫氏と間もなく北海道知事3期目を終えようとしていた横路孝弘氏とを中心とした新党協議を生み、96年9月の旧「民主党結成に結実した。

同党は、55年体制をその後ろ3分の1近くとする明治憲法以来100年余りの「発展途上国政治」に終止符を打つ「100年目の大転換」を引き起こすことこそ使命であるという歴史認識の下、大きな政府→小さな政府、成長至上主義→共生・循環型経済、脱対米従属→アジア外交重視など、それなりにリベラルとしてまとまりのある基本政策を打ち出した。この理念・政策力のインパクトは大きくて、たちまち新進党の分解とその多くの人たちの民主党への合流が始まった。

しかしこの民主党の膨張は痛し痒しというところで、確かに議員の数は増え、03年9月にはとうとう小沢一郎氏まで入ってくることになったが、その過程で当初のリベラル理念はどんどん薄まって、ついには行方不明のようになってしまった。だから、09年についに政権奪取に至り鳩山政権が成立するけれども、中身が付いていかず、3代3年3カ月で安倍自民党に明け渡すことになった

それから6年間も安倍政権が続いているのは、民主党政権の失敗の裏返しであり、同党がそれをきちんと総括した上で再生の道筋を立てることを怠ってきた結果である。

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