あえて今遡る。昭和の年金の話を聞けば、なぜ年金が必要かわかる

 

東条英機首相がサイパンをアメリカから守れなかった責任で昭和19年7月に小磯国昭内閣となり、その後サイパン陥落でついに日本本土が空襲の的になってきた。昭和19年10月というのはあの有名な神風特攻隊という戦法が取られ始めた頃でしたが、より一層国民の士気を高めるために厚生年金保険法の給付条件を良いものにした

当時特に問題だったのは脱退手当金だった(年金貰う期間満たさない人に今までの保険料返すみたいな制度)。女子の勤労動員(女子が工場労働に従事する)として働かされ始め、その徴用期間が2年間だった。しかし、脱退手当金は3年以上の被保険者期間が無くてはいけなかったので、不満が強くなり、厚生年金保険法に改正した時に脱退手当金は6ヶ月で貰えるようにした。更に遺族年金は10年の有期年金から終身年金へと変更された。

皆さんご存知のように昭和20年8月に日本は敗戦し、そして厚生年金保険法も壊滅状態だった。日本の各主要都市は戦争で焦土となっていて、何もない世界となっていた。

そんな中、満州国などの他の国に居た日本人が引き揚げてきて、兵士だった人も帰ってきた。その数は約700万人。しかし、何もモノがない日本にそんなに人が帰ってきたらたちまちインフレの猛威が始まった。とてつもないインフレのせいでまだ給付の始まっていない老齢の年金は凍結した。

昭和27年の日本独立まで、アメリカの占領下に置かれる事になる。

さて、年金は昭和の時代は昭和30年頃から始まった高度経済成長により、経済の成長が著しく、現役世代の賃金が毎年のように引き上がりそれに伴って年金給付が上がっていくような時代でした(実際は昭和40年代から年金額が上がり始める)。

そういう攻めの方向だった年金は徐々に抑制の方向へと転換し、主に給付の削減と保険料負担をいかに抑えるのかという事が課題となっていきました。それは昭和の時代に上げすぎた年金が次第に財政としては重荷になっていったという事もありますが、何といっても急激な高齢化と少子化が原因でした。

今の年金の財政が悪いのは国が年金を引き上げすぎたのがいけないじゃないか!って思ってしまいそうですが、その引き上げというのは必要な事だったんです。

昭和36年4月に池田勇人首相の掲げる所得倍増計画と同時に、国民年金制度と国民健康保険が始まり、皆年金と皆保険が実現しました。その時の所得倍増計画は確実に達成されて、昭和40年代は現役世代の賃金が毎年10%ほど上がり続けていって、年金と現役世代の賃金の差が開く一方でした。

昭和40年には従業員30人以上の会社の給与が月4万円だったのが、昭和45年には月75,000円になり、昭和50年には月額17万円、昭和55年には月額25万円、昭和60年には月額30万円というふうに年が経つにつれ勝手に給与が上がっていったんですよ^^;

その賃金の伸びに対して年金は引き上げないままだと、老後保障としての年金の役割が果たせなくなってしまいますよね。だから、昭和40年までは月額約3,500円程度だった厚生年金水準を、昭和40年に1万円に引き上げて、昭和44年に2万円、昭和48年に5万円(ここで現役時代の60%以上を給付する方向になった)、昭和51年に9万円、昭和55年に13万円に引き上がった。現役の頃と引退した後の年金額があまりにもかけ離れていると年金の意味を果たさなくなってしまうからです。その差があまりにも開かないように年金も引き上げる必要がありました。

 

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