ホンマでっか池田教授が探る「物々交換」の未来。金と格差はなくせるか

 

物々交換が起こるのは基本的には定住や農耕が始まり、穀物といった財を蓄えることができるようになり、他のグループと交流するようになってからであろう。風土が違うところに住むグループ間で、自分たちの特産品を交換したのであろう。

青森県に三内丸山という縄文時代の遺跡がある。今から5500年前から4000年前まで、1500年もの間繁栄した大規模集落であり、最盛期には500人ほどの人が暮らしていたと推定されている。クリの実を主食としていたようで、遺跡から出土したクリのDNA鑑定からこのクリは栽培したものであることが分かっている。他にもクルミ、トチ、一年草の栽培植物であるエゴマ、ゴボウ、マメなども出土した。さらにエゾニワトコの実を発酵させて、酒を造っていたことも分かっている。肉はノウサギとムササビが主で、シカやイノシシも狩っていたようだ。それ以外にも海産品も食べていた。

遺跡からは土器、石器のほか、交易で得たと考えられる黒曜石、琥珀、漆器、翡翠などが出土している。翡翠は上越地方から黒曜石は北海道などから船で運ばれてきて、三内丸山の特産品、恐らくクリと交換されていたものと思われるが、もしかしたら交換品は酒だったかもしれない。物々交換は三内丸山ばかりでなく、交流がある遠く離れた集落間で特産品が異なる場合は、比較的頻繁に行われていたのだろう。

しかし、労力をかけて運んできても、相手が欲しいとは限らないので、欲しい時に欲しいものを得られる道具として、物々交換していた商品の中から、耐久性に優れ、希少性が高く、嵩張らずに持ち運びに便利なものが、取引の道具として使われ出し、これが貨幣の起源になったというアリストテレス以来の商品貨幣起源説が長らく信じられていた。

近現代では貨幣として金や銀が使われることが多かったので、この説にリアリティを感じる論者は多い。ちなみに知られる限り最古の金属貨幣は紀元前7世紀のリディア王国(現トルコ)から出土している。

しかし、商品貨幣起源説には確たる証拠があるわけでないので、別の仮説もある。信用貨幣起源説は、取引は債権(請求)と債務(支払い)から成りたち、これは貨幣制度が導入される前から存在しており、貨幣はこれを具現化したものだという説だ。信用は互いによく見知った人の間でしか成り立たないため、良く知らない人と広く交易をおこなうために貨幣が導入されたというものだ。

ミクロネシアのヤップ島に石貨(フェイ)と呼ばれるものがある。主に冠婚葬祭時に送られる贈答品で、大きなものは持ち運びをせずに所有権のみが移行する。船や不動産の取引に使われ、これは信用取引の一種である。ヤップ島には他にも貝貨という貨幣があり、これは食品や日用雑貨の取引に使われたという。貝貨は我々が使用する貨幣と使い方は変わらない。

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