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【最終回】俺たちはどう死ぬのか? 春日武彦✕穂村弘が語る人間の幸せと不幸せ

精神科医の春日武彦さんと歌人の穂村弘さんが「死」をテーマに語り合ってきた対談も今回で最終回。人間の幸せとは何なのか?そして不幸とはどういう状態を指すのか?それは人によってさまざまです。では、普遍的すぎてなかなか答えが出ない「俺たちはどう死ぬのか?」について、2人はどんな結論を導き出したのでしょうか?

春日武彦✕穂村弘「俺たちはどう死ぬのか? 」

第10回:死後の世界って言うけど、全然違う人間として死ぬんじゃないかな。
第11回:なんでいつもこうなるんだ…人はなぜ、負けパターンに縛られるのか?
第12回:SNSの追悼コメントで自己アピールする人ってどう思う? 
第13回:猫は死期を悟って「最期の挨拶」をするって本当? 
第14回:「俺、この仕事向いてないかも」って思ったらどうしてる? 

過去の連載一覧はこちら↓

「不幸」は幸せか?

春日 ルーマニアの劇作家ウジェーヌ・イヨネスコ(1909〜94年)のエッセイ集『雑記帳』(大久保輝臣訳、朝日出版)に、「死」について言及している文章があってさ。

ちょっと長いけど引用すると「死なないこと。そうなればもうだれも人を憎んだりしなくなるだろう。もうだれも妬んだりしなくなって、愛しあうようになるだろう。(中略)われわれには無限に運だめしをするだけの時間的余裕がないということをわれわれは知っている。憎しみはわれわれの不安の表現であり、時間が足りないことの表現である。妬みはわれわれが見捨てられはしないか、滅ぶべき人生において、すなわち、生においても死においても見捨てられはしないかという恐怖の表現である」。

穂村 死があるから、人は人を憎んだり妬んだりする。死がなくなれば争いは起きず、みんな幸せになって、世の中も良くなるだろう、という考え方ね。

春日 不死によって、ある種の平等な社会が訪れる、というわけだね。

穂村 でも、現代においては、これとは逆の考え方が支配的な気がするな。つまり、死があるからこそ、ほとんど全てのことに意味が生じている、というか。

春日 もし誰も死ななくなったとしたら、何かで競い合ったりする必要はなくなるけど、それを通り越して「もう何もしなくてもいいじゃん」という心境になりそう。

穂村 何かをするモチベーションは残るのか? というと、ちょっと分からないよね。

春日 例えばスポーツとかだったら、学校の卒業までとか、身体が動いて選手として活躍できる年齢まで、みたいなリミットがある。だから、そこまでに勝つ、みたいな目標も生まれる。でも、そういうのがなくて永遠に時間が続くなら、競い合うことなんて面倒でしかないと思う。

穂村 少なくとも、モチベーションの在り方は全部変わってしまうと思う。

春日 でも、妬みとかがなくなるのはいいよね。

穂村 死ななければ、無限に機会があるから妬みはなくなる、ってことでしょ。でも、本当にそうなのかな? 例えば、容姿にコンプレックスを持っている人は、永遠にそれを抱え続けることにならない?

春日 元の素材で差が出るなら、それは平等ではないよね。しかも、努力でどうにもならない部分で勝負しなければならないとしたら、ひどい話だよ。

穂村 同じメンバーでずっと生きてるんだとしたら、それはもうみんな死んでる状態と変わらないんじゃないかな。ほとんど天国のイメージ。でもさ、もし選べるとして、迷いなく「死なない」を選ぶ人はどのくらいいるだろう? まあ条件次第だとは思うんだ。歳は取るのか、身体能力が何歳の時点で固定されるのか、とかさ。

春日 絶対罠があると思うよね。

穂村 人口問題とかね。

春日 不死だけど、代わりに毎日重労働やってもらいます、みたいな。きっと悪魔との取引みたいなもんに決まってるよ。

穂村 やはり、現状では生の意味というのは、「人は必ず死ぬ」ということから発生しているように思うんだ。だから、死なないということになったら、モチベーションがどうなるのか。捉え直せるのか。

春日 メリハリがないわけだしね。

穂村 そうだよね。死なないのに毎日お洒落とかするかしら。筋トレとかさ。

春日 健康に気を遣う必要がないわけだからね。

穂村 病気はあるのかなぁ。重病はあるけど死なない、とか嫌だな。

春日 イヨネスコも、そこまで細かな設定まで考えてたどうかは微妙だけど(笑)。まあ、あの人は不安神経症で、ユング派とかの分析をずっと受けていたからさ。苦しくて、ついそういうことを考えたくなっちゃったんじゃないの。救いを求めてさ。

「現状に満足」じゃダメ?

穂村 でも、人はつい、さまざまな「救い」の可能性を考えてしまう生き物だよね。僕もよく考えるもの。例えば、タイムスリップして戻って来られる権利を得たとする。1回だけ過去に行くか未来に行くかを選べるんだけど。

春日 やっぱり罠の気配が(笑)。

穂村 この設定で、イラストレーターの故・フジモトマサルさん(1968〜2015年)たちとシミュレーションした結果を原稿に書いたことがあったな。やっぱり、みんな未来に行くのは怖いんだよ。もし地球が滅亡していたりしたら、現在に戻ってきた時に、これから生きていく上での意味とかモチベーションを失ってしまいそうじゃない? 「もうあれを見ちゃったからな」みたいな諦念で。だから過去に行った方が無難、という結論になった。

春日 その手の話なら、何年か前にオランダの民間非営利団体が火星移住計画みたいなのをブチ上げたことがあったじゃない。片道切符でさ、行ったら帰ってこられないという条件で。

穂村 あった。

春日 あれ、けっこうな応募者いたんだよね。もちろん俺は申し込んだりはしなかったけど、一応脳内でシミュレーションしたりはしたな。

穂村 火星はまだSFの範疇だけど、昔の満州とかブラジルに移民していった人たちも、気持ち的にはそれに近かったんじゃないかな。少なくとも、片道切符の覚悟はあったはず。うちの曽おじいちゃんも屯田兵だったから、親からそういう話はちょっと聞いててさ。

当時、農家の家の子どもは長男じゃなければ活路もなかったから、一か八か、北海道か台湾かブラジルか満州に行く、みたいな。自分はここじゃ芽が出ない、でも活躍できる場所さえあればと思えるなら、行く気持ちは分かる。

春日 アメリカのSF作家フレデリック・ポール(1919〜2013年)の『ゲイトウエイ』(矢野徹訳、早川書房)という小説を思い出したよ。宇宙人が残したロケット基地があって、そこには1人乗りのロケットがいっぱい残っていて。それに乗ってスイッチ押すと、どっか飛んでくわけ。

穂村 行き先は選べないんだ。

春日 そう。だけど、上手くいくとダイヤモンドがザクザクの星とかに行けて、大金持ちになれたりするわけ。もっとも運が悪ければ、ブラックホールに一直線みたいなこともある。つまり博打なんだよね。それを読んで、ドキドキしながら「自分だったらスイッチ押すだろうか」とか考えたりしたな。

まあ、人生を半分投げているような状態だったらスイッチ押しちゃうかもしれないよね。一か八かでさ。ほら、いろいろ嫌んなっちゃう時ってあるじゃない? 自分もそういう時なら、魔が差してポチッっとしちゃうかも。でも俺はその直後に「しまった!」と思うタチだから、やめておいた方がいいだろうな。引き返せないという状態が、本能的に苦手なんだよ。穂村さんだったら、ダイヤモンド狙いの一発逆転の賭けに出る?

穂村 うーん……僕は家でどら焼きとか食べながらのコーヒー飲んで、諸星大二郎とか読んでるような生活ができるなら、それでいいかな(笑)。別にダイヤモンド要らない。

でも前に、そうしたマインドを作家の川上未映子さんに怒られたことがあるよ。「世界には飢えている人もいれば、性的少数者として苦しんでいる人もいる。そういう現実がある中で、諸星大二郎読んでどら焼き食ってれば自分はいいんです、って言っちゃう人は物書きとしてダメ」って(苦笑)。自分はここでちまちま遊んでいられれば、それ以上は望みません——みたいなのは、やっぱりダメなのかな?

春日 そんなわけないじゃん。

穂村 でも、複数の友だちにダメだって言われたよ。

春日 俺に言わせれば、ちゃんとそういう幸せの形を示せるというだけで十分だと思うな。そこには、他人に伝わるかどうかは別にして、その人なりの切実さが絶対あると思うしさ。

穂村 そういう自分の在り方に自信を持てなくて、宮沢賢治がどの程度菜食主義者だったか、みたいなことをつい調べてしまったりするんだよね。そしたら鰻食べたりしてるんだよ。だから、「宮沢賢治だって鰻は食ってる!」とか思って、自分のヘナチョコさをちょっとでも正当化しようとしたりして。

春日 鰻は食うわ、春画は集めるわ、本人の掲げる理想と現実とのギャップが甚だしくて苦笑いしてしまうよね。だけど、そういう人間くさいところが、あの人のいいところでもあると思うんだけどさ。

「プチ幸福」の知覚問題

春日 「死」について考えるということは、その瞬間じゃなくて、そこに至る過程に思いをめぐらすこと——それが、この連続対談のわりと早い段階で出てきた仮説だったじゃない? 今の話に繋げるなら、つまり自分なりの「幸福(な人生)」を想定できれば、それすなわち「幸福な死」への第一歩になり得るんじゃないかな。

穂村 先生にとっての幸せって、どんなものなの?

春日 俺は、口ではデカイ幸せを求めているけど、実際にそういうことが起こったら、たぶん耐えられないと思う。こんなに良いことがあるということは、次は絶対不幸が待っているに違いない、みたいな発想にどうしてもなってしまう。しかも、その幸福が大きければ大きいほど、不幸のスケールは格段に大きくなるとも思ってて。それが怖いから、基本的には「プチ幸福」くらいがベストかな。

穂村 それは、具体的にはどんなイメージなの?

春日 例えば、ホテイのやきとりの缶詰があるじゃない? あれ、今は違うんだけど、昔は缶にプラスチックのキャップが掛かってて、そこに爪楊枝が2本入ってたんだよね。つまり今ここにあったら、穂村さんと俺とであれを順ぐりにつまみながらワンカップかなんかを飲むわけ。そういう情景を具体的にイメージさせるところに、すごく感動する。1本じゃなくて2本ある楊枝に、いわば人間の善なるものを感じて嬉しくなるの。そういうものの方が、俺にとっては宝くじが当たった! とかより遥かに重要なの。

あるいは、駅から家に帰る途中に3階建てのビルがあるのね。こないだ夜に通りかかったら1、2階はもう真っ暗なんだけど、3階だけ明かりが煌々と灯いていてさ。英会話教室って書いてあって、窓からは、先生と思しき外国人が肩をすくめたり手を振り回したりして、実に大袈裟な手振りで授業をしているのが見えるわけ。それを眺めながら、ああいう不自然なもんも含めて世の中っていうのは回ってるんだな、ということが突然知覚され、なんかすごく腑に落ちるものがあったんだよ。

たぶん、世の中の仕組みが分かったかのような錯覚を起こしているわけだけど、これも俺にとっては一種の幸福なんだよね。こうした、たまに訪れる、小さいけれども肯定的な気持ちとか、小さな納得みたいなものにすがって俺は生きているのよ。

穂村 そんな素朴なものに喜びを見出せるのに、一方ではなんでこんなにアイロニカルなんだろうね?

春日 それは悲しい性でさ(苦笑)。でも、そういう世界のささやかだけど良い面だけ見て暮らしていけたら、今よりずっと楽になると思う。

穂村 爪楊枝2本で思い出したけど、うちの実家には「幸せは洗う茶碗が2つある」って書かれた色紙が壁に貼ってあってさ。もう母は亡くなっていて、父だけしかいないから、それを見るとなんだか悲しくなる。でもさ、こういうのって今は炎上しかねないんだよね。デフォルトで幸せとは「2本」とか「2つ」みたいにすると、「1人の俺にケンカ売ってるのか!」みたいに取る人もいるわけで。

僕らだって、今はパートナーがいるから心に余裕があって、それを幸福の象徴みたいに見ていられるけど、もし妻も友だちも話す相手も1人もいなくて孤独だったら「ふざけんな!」と爪楊枝を折ったりしてるかもしれない。

春日 それは、その通りなんだよね。俺は嵐の晩に猫と一緒にいると、すっごい楽しいのよ。だけど、外では被災している人もいるわけで、そっちからしたらまさに「ふざけんな」だものね。しかし、嵐の中でなんとなく気分的に世の中と隔絶してるような、してないような、その辺の微妙な感じというのがすごく良くてさ。妙に想像力が働いて、行き詰まっていた原稿のアイデアが浮かんできたりする。

穂村 昔、なぜミステリ小説が好きかを説明する時に、先生は似たようなことを言っていたよね。本の中では血みどろの恐ろしいことが起きているけれど、自分はあったかい部屋のソファで猫と戯れながらページをめくってる。目を上げると、本の中の非日常とは真逆の、いつもと同じ世界がそこにある——そのギャップがいい、って。

春日 自分の安全が約束されているからこそ、非現実的な殺戮とかも楽しめるわけだからね。そういうギャップみたいなのも、俺なりの幸福の一形態なのかもしれない。

穂村 ミステリ小説のように、自分に直接被害を及ぼさない「死」に自発的に接近することで、生の意味を確かめるみたいなことってあるよね。僕は時々、飛行機が落ちる時に書かれた遺書とか、雪山に閉じ込められた人が死に至るまでに書いた文章とかを探して読んでしまうんだよね。

内容は、たいてい子ども宛に書かれた「お母さんを大事に」みたいなものなんだけど、みんな名文のように感じられる。そういうの読むと、こうして暖かい部屋でソファに座って猫にチャオチュールやりながら先生と話したりしている、まったく平凡な自分の生が輝かしいもののように思えてくる。でも、そういうふうに死に瀕した人の感覚を借りないと、自分1人では、その「輝かしき平凡」という名の幸せをなかなか実感することができない。

逆に、スーパースターみたいな人を見て「儲かってんだろうな」的なことを考えてしまったり、そういう人がスキャンダルとかに見舞われると「そら見たことか」みたいに思って溜飲を下げたり。普段は、どちらかというと崇高なものに憧れているクセに、放っておくとそんなふうにどんどん心が汚くなっていくのは何故なんだろうね。

幼児性と無垢との狭間で

穂村 ちょっと似た話で、何かの本で読んだ記憶があるんだけど「もっとも手っ取り早く元気を出すには、ロシアンルーレットをやればいい」という主張があってさ。耳元で、「カチッ」という不発音を聞いた瞬間、ものすごく生きていることを実感して元気が湧いてくるんだって。こういうのも、幸福の1つの形ということになるのかな。

春日 イギリスの小説家グレアム・グリーン(1904〜91年)がやってたらしいね。カチッってなった時は童貞を失ったみたいな感じがした、って自伝に書いていたよ。

穂村 どういう意味なんだろ?

春日 祝福され世界に受け入れられたような気がした、みたいなニュアンスだった。でもあれ、一度セーフということになっても、次また順番が回ってくる可能性があると考えたら気が滅入りそうだよね。あれをもう一回やるのかよ! みたいな。一回で気力を全部使い果たしそう。

穂村 6発入るリボルバーに銃弾を1発装填したら、自分で自分の頭を撃ち抜く可能性は1/6。でも、それだと怖いから、せめて1/600くらいにして欲しいよね。それでも効果はそんなに変わらないと思うんだ。死の可能性がゼロでさえなければ。

あ、それで言えば、今新型コロナウイルスが流行しているわけだけど、感染者がここまで増えてしまうと、いつ自分がかかってもおかしくないと思うから、ある意味生活しているだけでロシアンルーレット状態だとも言えるよね。でも、ぜんぜん元気は出ないね。何がちがうんだろ。

春日 やっぱり、自分の手でアクションを起こすことが重要なんじゃないの。

穂村 ただ、ロシアンルーレット的なものの効果は、そこまで持続しないような気もする。この前、道を歩くこともテレビを見ることも漢字を書くことも全部楽しい、みたいな短歌を見てびっくりしたんだけど、作者が外国の名前だったから、おそらく命の危険があるような国から日本にやってきて、あらゆる物事が新鮮なんじゃないか。でも、この人も、やがてはその生の奇蹟に慣れて「楽しい」と感じなくなると思うんだ。そうしたらこんな歌は詠めなくなるよね。

春日 まあ、確実に感覚は鈍磨するだろうね。良くも悪くも、人間は感覚が麻痺していく生き物だから。それは時に辛さから逃避する手助けになるけど、逆に楽しいことも色褪せさせてしまう。なかなか都合良くいかないものだよね。

穂村 生きることに慣れない方がいい、みたいなこともあるのかな。いつまでも幼児性を失くさずにいた方が幸福なんじゃないか、とかさ。ちょっと自分に都合よく考えすぎかな(笑)。

春日 幼児性ということなのかは分からないけど、俺は20年以上心の拠り所にしているぬいぐるみがあるよ。「だんぺい君」っていう名前で、ツモリチサトがデザインしているヤツ。遠赤外線が入ってて暖かいのよ。何かで見ていいなあって言ってたら、女房が誕生日に買ってくれてさ。

それはそうと、幼児性みたいなものはみんなどっかで失くすものなのかもしれないけど、年とるとワガママになったりするから、結局は回帰してくるものとも考えられているよね。まあ、幼児性のイヤな部分が、ってことになるわけだけど。

穂村 呆けると一番幸福だった時代に戻るという説があるよね。まあそうならなくても、僕はいまだにブルボンのお菓子とか出されたら、嬉しくて延々食べちゃうけど。

春日 ただ悲しいかな、それは「無垢である」ということとは全然関係がないんだよね。

穂村 そもそも、実際の幼児が全然無垢じゃないもんね。だって、ある欲求に対して全能感の塊なんだもの。むしろ権力やパワーを持たせたら最悪、という存在じゃない。無力だから、子どもは子どもとして可愛がられるだけで。吉野朔実さん(1959〜2016年)の漫画に「大人だと思って甘く見るなよ」って台詞があったけど、僕もそんなふうに思うから、子どもとか見てもライバル意識しか浮かばないもんね。

春日 これからの人生、辛いことがたくさん待ってるんだぜ、ってね(笑)。

穂村 我ながら器が小さいなと呆れてしまうよ。でもさ、そういうどうしようもなさと、崇高なものに憧れる気持ちって矛盾しないと思うんだ。心が汚くても素晴らしいものに憧れてもいいよね。というか、だから憧れるんだ。

春日 うん、心の汚さをエレガントに隠しおおせるかどうかのほうが重要でね。そんなことも出来ない奴には、理想なんか手に負えないどころか危険だよ。

(了)

春日武彦✕穂村弘対談
第1回:俺たちはどう死ぬのか?春日武彦✕穂村弘が語る「ニンゲンの晩年」論
第2回:「あ、俺死ぬかも」と思った経験ある? 春日武彦✕穂村弘対談
第3回:こんな死に方はいやだ…有名人の意外な「最期」春日武彦✕穂村弘対談
第4回:死ぬくらいなら逃げてもいい。春日武彦✕穂村弘が語る「逃げ癖」への疑念
第5回:俺たちは死を前に後悔するか?春日武彦✕穂村弘「お試しがあればいいのに」
第6回:世界の偉人たちが残した「人生最後の名セリフ」春日武彦✕穂村弘対談
第7回:老害かよ。成功者が「晩節を汚す」心理的カラクリ 春日武彦✕穂村弘対談
第8回:年齢を重ねると好みが変わる? 加齢に伴う「ココロの変化」春日武彦✕穂村弘対談
第9回:俺の人生ってなんだったんだ…偉人たちも悩む「自己嫌悪な半生」 春日武彦✕穂村弘対談
第10回:死後の世界って言うけど、全然違う人間として死ぬんじゃないかな。春日武彦✕穂村弘対談
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春日武彦(かすが・たけひこ)
1951年生。産婦人科医を経て精神科医に。現在も臨床に携わりながら執筆活動を続ける。著書に『幸福論』(講談社現代新書)、『精神科医は腹の底で何を考えているか』(幻冬舎)、『無意味なものと不気味なもの』(文藝春秋)、『鬱屈精神科医、占いにすがる』(太田出版)、『私家版 精神医学事典』(河出書房新社)、『老いへの不安』(中公文庫)、『様子を見ましょう、死が訪れるまで』(幻冬舎)、『猫と偶然』(作品社)など多数。
穂村弘(ほむら・ひろし)
1962年北海道生まれ。歌人。90年、『シンジケート』でデビュー。現代短歌を代表する歌人として、エッセイや評論、絵本など幅広く活躍。『短歌の友人』で第19回伊藤整文学賞、連作「楽しい一日」で第44回短歌研究賞、『鳥肌が』で第33回講談社エッセイ賞、『水中翼船炎上中』で第23回若山牧水賞を受賞。歌集に『ラインマーカーズ』『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』、エッセイに『世界音痴』『現実入門』『絶叫委員会』など多数。
ニコ・ニコルソン
宮城県出身。マンガ家。2008年『上京さん』(ソニー・マガジンズ)でデビュー。『ナガサレール イエタテール』(第16回文化庁メディア芸術祭マンガ部門審査委員会推薦作品)、『でんぐばんぐ』(以上、太田出版)、『わたしのお婆ちゃん』(講談社)、『婆ボケはじめ、犬を飼う』(ぶんか社)、『根本敬ゲルニカ計画』(美術出版社)、『アルキメデスのお風呂』(KADOKAWA)、『マンガ 認知症』 (佐藤眞一との共著・ちくま新書) など多数。

漫画&イラストレーション:ニコ・ニコルソン
構成:辻本力
編集:穂原俊二
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