死が訪れるのは人間ばかりではありません。それは動物も同じ。しかし、人間が死についてセンチメンタルなものを抱いてしまうのに対して、動物はリアルな体験として死ぬだけで、そこに特別な感情はなさそうです。なぜなのでしょうか?精神科医の春日武彦さんと歌人の穂村弘さんが今回は動物の死について考察していきます。
春日武彦✕穂村弘「俺たちはどう死ぬのか? 」
第10回:死後の世界って言うけど、全然違う人間として死ぬんじゃないかな。春日武彦✕穂村弘対談
第11回:なんでいつもこうなるんだ…人はなぜ、負けパターンに縛られるのか?春日武彦✕穂村弘対談
第12回:SNSの追悼コメントで自己アピールする人ってどう思う? 春日武彦✕穂村弘対談
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動物は「死」に恐怖するか?
穂村 この対談連載で繰り返し話してきたけど、僕はこれまで死んだ人を目の当たりにしたことがほとんどないし、「死」というものがどうにもイメージできないんだよね。同様に、僕はペットを飼ったことがないので、人だけでなく、動物の死もまたよく分からない。
例えば犬や猫はさ、まわりで飼っている人に聞くと、最後の瞬間にお別れの挨拶をすると言う人が一定数いる。それって、そこに「感情」とか「意思の疎通」を見ているわけだよね。先生は、今家にいるねごとちゃん(春日先生の愛猫)の前にナルトって子を飼っていたでしょ。どうだったの?
春日 あの猫はね、呼吸がどんどん荒くなっていって、あるタイミングで「次の呼吸が来るかな?」と思ったら来なかった、という感じの最期だったよ。でも、あの時間もなかなかしんどいものがある。
ゼーコラゼーコラ言ってて苦しそうだし、いっそ楽にしてやりたい気持ちもあったりするからさ、「止まったか?」と思ったらまた呼吸したりすると、「よかった」と同時に「ああ、まだか」とも思ったりするしね。最後の挨拶みたいなロマンは、残念なことになかったなあ。
穂村 言語を持たない彼らには、ただ身体的な苦しみがあるだけで、恐怖は一切ないのかしら。
春日 どうなんだろうね。人間でもナルトみたいな死に方は結構あるけど、あの状態ではもはや苦痛も恐怖もないと思う。身体だけが、まだオートマチックに「生」にすがりついているだけで。人にせよ猫にせよ、仮に意識が残っていたとしても、「もう面倒だな」って思っているだけじゃないのかな。
穂村 人間の場合、「死」の苦痛よりも恐怖の方が圧倒的に大きいような気がするんだよね。でも見ている限り、動物には天敵への本能的な警戒心とかはあるけど、「死」そのものへの恐怖はなさそうだし、どこか無頓着に思えるんだよ。
〈片脚のなき鳩ありて脚のなきことを思わぬごとく歩きぬ〉(島田幸典)って短歌があるんだけど、事故で後ろ脚を失くして車状の器具で支えている犬を見た時も、元気に遊んでて自分のそんな状態を気にしているようには見えなかった。
春日 たぶん悲しみはないよね。こちらは切ない気持ちに駆られるけど。
穂村 自らの運命に何の疑問も持たず、ただ受け入れているというか。そういう完璧な受容みたいなものを「格好いいな」と思いつつ、僕たち人間には言語があるから、怪我をする前の自分と比較して嘆いたりするでしょ。どうしても運命を悲観すると思うの。
〈動物は何も言わずに死んでゆく人間だけがとてもうるさい〉(木下龍也)って短歌もあって、人間だけが言葉を持っているから、自分が死ぬことを理解する。動物はただ今ここの体験としてリアルに死んでゆくだけ。
春日 動物って、基本的にそんなに死を怖がらないと思うのね。と言うのは、個別性というものがそこまでないわけだから。特に虫なんかがそうだけど、種全体として1匹みたいな感じがある。
穂村 虫とか爬虫類は分かるんだよ。例えば、ワニが別の動物と闘っている動画とか時々見るんだけど、彼らは命を懸けて必死なくせに、時々「え?」みたいな動きをすることがある。まだ闘いは終わってないのに急に静止したりして、「今だよ今! そこでやらないとお前やられるぞ」って思ったりさ。どこかメカっぽいんだよね。それは、ある意味戦闘に対して最適化されているがゆえの動きなんだろうけど、でも、やはり死の観念がないからこんな動きになるんじゃないかと思えてきて。
でも犬や猫は、失敗したら誤魔化そうとするとか言うじゃん。あるいは、猫は嫉妬するとか、死期を悟る、みたいなことも。それってもはや言語的作用に近いことに思えるんだよね。もしかしたら「自我」に近いものを持っているんじゃないかな、って。
春日 確かにね。言語こそ持たないにしても、感情の有無みたいなところに関しては、微妙なところがあるかもしれない。だけど猫が自分の死を目前に「最後の挨拶」をしたとしても、たぶん永遠なんてものを理解してはいない。そのあたりで、我々のほうがセンチメンタルなものをひたすら一方的に膨らませているんだと思うよ。
「エサ」じゃなくて「ごはん」
穂村 ペットと言えばさ、昔、猫を飼っている人に「エサは何をあげてるんですか?」って聞いたら、「ごはん」と言い直されたことがあったんだよ。最初は意味が分からなかったけど、「エサ」って言葉も使わなくなりつつあるんだね。
春日 ああ、ペットというより、家族という意識が強くなっているんだろうね。
穂村 という話を、大昔に猫を飼っていたという父にしたら、「エサをやるなら飼ってる意味がないだろう」という言葉が返ってきて、さらにびっくりした。つまり父の中では、猫を飼うのは当然ネズミを捕らせるため、ということになっているんだよね。
春日 愛玩動物的な発想じゃない、と。
穂村 まあ、父が猫を飼ってたのは戦前の話だからね。ネズミ対策という目的があって、猫はその手段みたいな感じで、ご近所同士で貸し借りなんかもしたらしい。さすがに、2020年現在ではかなり通じにくい話だと思うけど。番犬って言葉も今は死語かなあ。
春日 確かにね。エサって言わない、ペットじゃなくて家族、みたいな話で行くと、いまや犬が服着ているのとかも普通だもんね。むしろ、着てないと「裸なんですね」とか言われちゃったりするらしいよ(笑)。冬なのに寒くないんですか? って。いや、毛皮があるだろ、って話なんだけど。田舎の方は分からないけど、都会は完全にそんな感じだよね。
穂村 犬用のデザイナーズ服とかありそうね。
春日 でもさ、服着てても生殖器丸出しで、あのへんの整合性は飼い主の中でついているのかねえ。クマのプーさんとかもそうだけど、あれ、人間だったら変態だからね(笑)。
穂村 お尻が可愛いから隠したくないのかな?
春日 単純に、下半身覆っちゃうと排泄できないからじゃない? 自分では脱げないわけだしさ。
穂村 あ、いや、プーさんのほうだけど。うーん。どうもリアリズムの設定がよく分からない。そんな感じが行くところまで行くと、そのうち動物用の精神科医なんかも生まれてくるかもね。そうだ、春日先生、世界初の動物の精神科医になればいいじゃん。
春日 ドリトル先生だね。
穂村 そうか。あ、でも、すでにいそうな気がする。セレブを顧客にしたりしてさ。
春日 儲かるだろうね。絶対に自由診療(注・保険外診療のこと。値段は医者が自由に設定できる)だろうし(笑)。