今や3つの直営店を経営し、テレビ番組でも活躍する人気料理人、笠原将弘氏。予約の取れない人気店の「マスター」として知られる彼ですが、その料理人生は決して順風満帆なものではありませんでした。今回の無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』は、苦しみもがいた若き日々とそこから抜け出すきっかけについて、笠原氏本人が語ったインタビューを再録しています。
予約の取れない日本料理店「賛否両論」の原点
予約の取れない店として知られる「賛否両論」。店主の笠原将弘さんは、父親が始めた焼き鳥屋を受け継ぎ、人気の日本料理店に生まれ変わらせました。
本日は笠原さんにご登場いただいた『致知』2015年3月号特集の一部をご紹介します。笠原さんは父親の死によって客足が遠のいた店をどのように変革していったのでしょうか。
僕は28歳の時に、今度は父親ががんで倒れました。一人っ子だったので修業を辞めて実家に帰ることを決意したのですが、進行も早くて、戻る前に父は亡くなってしまいました。
両親がやってきた焼き鳥店を自分一人でやっていく。もちろん不幸なストーリーですが、発想を変えて、俺は28歳でオーナーシェフになったんだと、無理矢理そう思うことにしたんです。
半年間くらいは同級生も面白がって来てくれたし、親父の頃からの常連さんも応援の意味で足を運んでくれました。でも、親父と話すのを楽しみにしてきた人たちはやっぱり僕じゃ物足りなくて足が遠のいていくし、同級生たちもそんなに金がないから安い居酒屋チェーンのほうが安上がりです。
気がつけば「あれ、最近うち暇だな」って。閑古鳥が鳴くってこのことなんだろうなっていうような状態になったんですよ。そうなると余った食材をどう使い回そうかなとか考えるんですよね。
焼き鳥の串を打っても残れば全部外して、甘辛く煮込む。刺し身用に買った魚も、南蛮漬けにして日持ちさせる。そうなると、
お客さんが来ない→売れ残る→材料が悪くなり、捨てる→儲けがない→いい材料が仕入れられない
という、完全な負のスパイラルになっちゃうんですよ。
その時初めて、料理っていうのは食べてくれる人がいないとこんなにも切ないんだなと思い知りました。そして、親父はこの1本数百円という焼き鳥で俺を育ててくれたんだ、親父はすごかったんだと改めて思いましたね。
そこから1年くらい続きました。借金をするまではいかなかったものの材料が思うようには仕入れられないから、メニューの黒板が埋まらないんですよ。大きな空きスペースができるので、誤魔化すために「きょうは夫婦ゲンカしました」とか「築地に行ったら定休日でした」と日記みたいな一言を書くようにしたんです。
また、時間だけはたくさんあったので、焼き鳥の他は安い野菜を使って手の込んだ料理をつくったり、いろんな料理の本を研究してフレンチをつくったり。そういうメニューを黒板に書いていったら、気になった人がいたんでしょうね、ちらほら新しいお客さんが入ってくるようになりました。いかにも頑固おやじがやっていそうな古い焼き鳥屋だけど若いお兄ちゃんがやっていて、シャレたレストランで出てくるような料理も格安で出してくれる。そのギャップがよかったんだと思います。
一度きてくれた人が、次は別な友達を連れてきたり、会社の同僚たちを連れて来てくれるようになって、3年目には気づいたら連日お客さんで埋まるようになっていました。
そうすると、今度はローカルテレビや雑誌の取材も続くようになって、プラスのスパイラルに入っていきました。
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