母親に「性転換したい」と打ち明けた
社会へ出て、奈良から大阪への通勤が日常となったユズシカさん。いよいよ「女性から男性へ」性転換した人物と出会います。その人は著書『女から男になったワタシ』(青弓社/1996)を上梓した虎井まさ衛さん。性同一性障害の診断を受け、のちに戸籍の性別変更を求める運動の旗手となった虎井さんに、ユズシカさんは勇気づけられたのです。
「通勤電車の中でおじさんが読んでいた新聞の広告で、虎井まさ衛さんの存在を知りました。『女から男になった人がいるんだ!』って嬉しくて、さっそく本を買ったのです。出版社に感想の手紙を書いたら、とてもきれいな字の返事をくださいましてね。文通が始まりました」
手紙のやりとりで友情を育んだ二人。虎井さんがスタンフォード大学の病院で最終手術を受ける際、ユズシカさんは付添人として渡米しました。この海を越えた経験は、ユズシカさんの性転換への意志をいっそう強くしたのです。そうして覚悟を固め、「男になる」と母親に告白します。
「母へ手紙を書いたんです。母は私のボーイッシュな部分やショートヘアを気にいってくれて、人に『息子だ』と紹介してくれた日もありました。けれども、さすがに性転換となると話は別。とても悩んでいましたね」
戸惑う母。父親は、どのような反応だったのでしょう。
「父とは……ほとんど話をした経験がないのです。父は私には関心がなかったと思います。家にもあまりいませんでした」
性転換が進むにつれ、身内が離れていった
両親から性転換を「しろ」とも「するな」とも言われない、糸が張り詰めたような十代。同時期、ユズシカさんは精神科医より性同一障害と診断されます。そうして手術に親の同意が必要でなくなる二十歳になり、性同一障害の診断書を携え、初めて肉体にメスを入れる運びとなったのです。最初の手術では「腋窩(えきか/わきの下)」のそばを切り、乳房の乳腺と脂肪を取り除き、圧迫して癒着。胸を平らにしました。
「胸がなくなって、自由になった気がしました。胸のふくらみを気にせずメンズファッションが着られるし、すっきりしました」
乳房をなくし、重しが取れたような解放を感じたユズシカさん。その後、お金を貯めては少しずつ肉体を改造。自分の肉でつくった男性器を植え、20代後半には行政の書類にも「男性」と記載されるようになったのです。
しかし、決して快適なできごとばかりではありません。性転換が進むにつれ、親族はユズシカさんと距離を置きはじめました。
「性転換が進んでゆくにつれ、弟は私の存在を隠すようになりました。結婚式にも呼んでもらえなかった。5年前に祖母が亡くなった葬式に参列するまで、弟は自分の妻と子どもに私の存在を内緒にしていました」
親戚からも避けられ、付き合いをしなくなっていったといいます。性同一障害への理解がもっとも得られにくいのは身内だという現実。ユズシカさんは現在も渦中にいるのです。
初めて芽生えた「女性らしくふるまいたい」気持ち
二十代、大阪で医療従事者となったユズシカさん。親族とのあいだにしこりを残しつつ、男性として淡々と病院の仕事をする日々を送っていました。そんな彼女(当時は彼)に心境の変化が表れたのが34歳。福井県への転院が契機でした。
「出会い系アプリでバイセクシャルの既婚男性と知り合ったんです。彼は『男はこうあるべき』『女はこうするべき』と接してこない、自由な考えの持ち主。知的でした。尊敬できたんです。次第にほんのりと恋愛感情が芽を吹き、『かわいいと思われたい』と考えるようになってきました。『この人の前で女性らしくふるまったら、彼はどう言うんだろう』と、興味が湧いてきたんです」
「女性らしくふるまいたい」。ユズシカさんの人生で初めて萌えたった感情。それは内在していた女性の部分が男性へ恋することで活性化したから、なのでしょうか。
「断じて、それはない。その人に『かわいい』と言われる自分を想像したら笑えてきただけ。女に見える自分が滑稽でおもしろい。あくまで非日常を楽しむ感覚でした。女装も、知らない土地だから思いきった行動がとれたのでしょう。それに実際、かわいくなんてならないですよ。不思議なもので化粧をしても、女には見えない。なにかが違うんですね」
恋心をいだいたバイセクシャルの男性に笑ってもらおうと始めた女装やメイク。「女性になりたかったわけでない」。ユズシカさんはそう言います。しかしながら、女性への性転換を考える発端になったのは事実なようです。
「その人とはもう縁が切れ、現在どこで何をしているのかも知らない。彼への想いから性転換を考えたわけではないです。女性になりたくなった理由は……う~ん、違う自分に興味を持ったから。違う自分への興味が抑えられなくなった、というところでしょうか」