加えて堺屋太一氏の「再就職のため」という解釈は、実は、素晴らしく的を得た解釈でもあったのです。
詳しくは令和4年12月12日のねずブロ「忠臣蔵の真実」で述べていますので、そちらをご参照いただければ良いのですが、簡単に要約すると、
そもそもの事の発端は、京の都から天皇の名代として江戸に下向してくる勅使が、天皇の名代でありながら将軍の下座に置かれるという室町以来の矛盾にあります。
山鹿流を学び、皇室尊崇の念の強い赤穂浅野家の家中は、勅使下向の接待役としてその準備をするにあたり、この矛盾を「殿は放置なさるおつもりか」と、するどく指摘し、浅野内匠頭を追い詰めるわけです。
一度目はなんとか家中を抑えた浅野内匠頭も、二度目の接待役では、もはや沸いている家中声に、もちろん自らも席次をおかしいと思っていますから、ついに自ら行動を起こすことになります。
それが松の廊下の刃傷事件です。
この頃の播州浅野家は、将軍お目見え以下の身分とされていました。
お目見えと、お目見え以下の違いは、将軍と直接会うことができるかどうかの違いです。
当時の播州浅野家の家格では、将軍と直接会って話をすることができない。
そこで、頭の固い老中たちに、事の矛盾を指摘して改善を求めるために、またあわよくば取り調べに際して将軍と直接拝謁できれば、そこで堂々と、将軍は勅使に対して下座であるべきとの主張を繰り広げようと、意図して起こした事件が松の廊下の事件であったわけです。
けれど幕府も、そんな浅野家の気持ちは察していて、浅野内匠頭をその日のうちに切腹にしてしまう。
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