立憲の腰砕け。野党第一党が聞いて呆れる「岸田軍拡」擦り寄り姿勢の醜態

 

自民党の補完勢力になり下がりながら衰退していく立憲民主党

野党第一党の腑抜けの原因の第3は、この党がなかなか抜け出ることができない「中道」という幻想にある。上に引用した文書を作った責任者である玄葉光一郎=元外相は、「安全保障政策はもう少し中道に寄る必要がある。少数だが国際情勢に関する現状認識が甘すぎる人が党内にいることは事実だ」と語っている(3月23日付朝日)。

しかし私に言わせれば、「中道」という言葉自体がすでに死語である。なぜなら、世界が西と東の両陣営に分かれて激しく対立した冷戦時代には、国内政治もまたそれを反映して右と左、保守と革新に分かれてイデオロギー的な対立に終始した。その時代には、左右とも両極端に偏りがちで、現実的な諸問題を解決するための建設的な対話さえろくに成り立たない有様だったので、その両者を批判する「中道」という位置どりがありえ、日本の場合それは例えば旧民社党だった。しかし、左右があればこその中道というのは、自らの確固たる立脚点を持たない浮遊的な中点にすぎず、せいぜいが足して二で割る折衷主義。結局のところは自民党の補完勢力になり下がりながら衰退していくしかなかった。今頃になって「中道」だなどと言っている立憲は、旧民社党化の道筋を辿っているのだと言える。

旧民主党の結党に関わった人間たちの思い

冷戦時代が終わって、1990年代以降は「日本政治でも、右と左でなく、保守とリベラルという対立構図が語られることが多くなった」と宇野重規は『日本の保守とリベラル』(中央公論新社、23年刊)で述べている。

保守もリベラルも、時代によって国・地域によって、さらには論者によっても意味やニュアンスが様々で、簡単に定義するのは難しい。しかも、「保守とリベラルは次元の異なる話で、必ずしも対にならない」と宇野が言うのはその通りで、その証拠に、「小日本主義」を掲げた石橋湛山やその継承者とも言える自民党内の宏池会などは「保守リベラル」と呼ばれたりしてきた。にも関わらず、冷戦が終わり社会主義体制が崩壊、国内でも社会党を中心とする「革新」イメージが後退すると「それに代わる政治的ラベルとして『リベラル』が復権することになった」(宇野)。

1993年の細川護煕政権(日本新党、新生党、さきがけ、公明党、社会党、民社党、社民連)、94年の羽田孜政権(社会党とさきがけが閣外へ)と村山富市政権(自民、社会、さきがけ)、95年の新進党結成と96年の民主党結成などが「革新に代わるリベラル」が台頭する動きとして大雑把にくくられた。とはいえ、新進党は「新保守」を自認し旧保守=自民党との保守2大政党制を目指すかのようなことを言い、「リベラル」という対抗軸を立てるという自覚はなかった。そのことに批判的だった(1)それこそ保守リベラル的なさきがけの中の鳩山由起夫を筆頭とする一団、(2)社民党系の横道孝弘=元北海道知事はじめ山花貞夫=元委員長や赤松広隆=前書記長、団塊世代中心の仙谷由人らニューウェーブの会のメンバー、(3)社民連の江田五月と菅直人、(4)日本新党でありながら新進党に合流しなかった海江田万里――といった人々が、保守に対抗するのはリベラルだという思いから結成したのが96年民主党だった。

この結成過程に理念・政策面から関与した私は、〔保守リベラル+社民リベラル+市民リベラル=民主リベラル→民主党〕という図柄を描いて、「リベラルにも色々あるが、それらが大きく合流して自民党に拮抗しようというのが民主党で、これが出来て一定の力を持ち始めると、『新保守』という曖昧理念しか持たない新進党は必ず分裂して、その中の良質部分はこちらに合流してくるだろう」と見通しを語っていた。

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