美しいビブラフォンの調べに酔いしれて。あなたは幻の作曲家・平岡精二を知っているか?

2023.06.30
by gyouza(まぐまぐ編集部)
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貴方は、作曲家・平岡精二(ひらおか・せいじ)の名前をご存知だろうか?聞いたことがない人でも、彼の作曲した音楽を聴けばピンとくるに違いない。なぜなら、彼が遺した音楽は今も多くの人の記憶に刻まれているものばかりだからだ。まずは、この曲をお聴きいただこう。

2017年に亡くなった、あの「ドレミの歌」の作詞ならびに歌唱者でおなじみの歌手・ペギー葉山による「学生時代」である。今もCMなどに使用されているので、ご存じの方も多いはずだ。この曲の作詞・作曲を担当したのが、作曲家でビブラフォン奏者の平岡精二(1931-1990)である。

一方、ジャズのビブラフォン奏者としての平岡は、こちらの動画を聴けば理解できるのではないだろうか。

しかし、私たちは「平岡精二」という名前を今までほとんど目にしたことがない。そんな平岡の作品を2枚組のCDにまとめた初の作品集が今年春に発売された。今までベールに包まれていた天才作曲家の偉業が、初めて一つのCDパッケージにまとめられたことになる。

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ビクター・トレジャー・アーカイヴス『平岡精二ビクター・イヤーズ

では、今まであまり語られることのなかった作曲家・平岡精二とは一体どんな人物だったのだろうか? その謎を解くには、まず彼の生い立ちを紐解かねばならない。それは、山あり谷ありの人生を送った音楽家の「波乱万丈」の物語であった。

 天才作曲家の波乱万丈人生

ここで平岡の生い立ちをご紹介しよう。平岡精二は1931年8月13日、東京・麻布生まれ。徳川家の家臣に遡ると言われる名家に生まれた彼は、幼いときから父にピアノの手ほどきを受け、世界的な木琴奏者の叔父・平岡養一には木琴を、和声学を池内友次郎に師事している。13歳でNHKからクラシック木琴独奏者としてデビュー。しかし、叔父からクラシックよりもジャズの才能があると見込まれて背中を押され、方向転換する。

戦後、青山学院高等部在学中に浜口庫之助、犬丸一郎、益田貞信らとハワイアン・バンド「村上一徳とサーフライダース(のちのスウィング・サーフライダース)」に参加し、プロ入りを果たした。大学卒業後、1956年には自己のカルテットを結成。のちに宮川泰らとともにクインテットに改編し人気を得た。

1960年には東芝と専属契約を結び、メンバーを入れ替えて、帝国ホテルのディナー・ルームに腰を落ち着けて、洗練された純度の高いディナー・ミュージックに打ち込むようになる。

その後もメンバーの変動を繰り返し、規模の拡大・縮小を重ねながらジャズ・ヴィブラフォンの第一人者として人気を博すようになる。また、歌謡曲の作詩・作曲にも才能を発揮し、旗照夫「あいつ」、ペギー葉山「学生時代」「爪」などのヒット曲を発表。母校である青山学院大学校歌も手掛けている。1965年5月からはフジテレビの朝のワイド番組「小川宏ショー」の専属バンドとしてお茶の間に登場し、5年間のレギュラーを果たした。

しかし1970年の秋に突然バンドを解散、自身の会社「平岡プロダクション」も閉鎖して単身ハワイへと渡った。現地のホテルでバンドに加わり演奏を続けていたが、体の不調により、翌年4月には帰国。このとき平岡は、不眠解消のために酒量が増え、アルコール依存症で手が震えるほどの状態だったという。その彼を支えたのが、ハワイで再会した幼馴染の女性であり、帰国後に2人は結婚。しかし1年後に離婚し、その頃から平岡は不安神経症という奇病に罹って「再起不能」とまで言われ、完全に表舞台から姿を消した。

ところが1976年、銀座ヤマハホールで開催されたリサイタル「平岡精二リサイタル’76/まだやってます41才!」で奇蹟のカムバックを果たし、以降、創作・演奏活動に復帰。1981年には自作自演アルバム『平岡精二より愛をこめて』を制作・発表した(演奏:平岡精二クインテットとフレッシュ・ノーブル)。

1990年3月22日に永眠、享年58歳。音楽に生き、しかし音楽を辞め、そして再び音楽に返り咲く、「還暦」にも届かなかった太くて短い波乱万丈の人生だった。 (参考文献:ビクター・トレジャー・アーカイヴス『平岡精二ビクター・イヤーズ』ライナーノーツより)

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