側近さえも理解不能。プーチン大統領の頭に「終戦」の二文字はあるのか?

Belgrade, Serbia - January 17, 2019 : Vladimir Putin, the President of Russian Federation in press conference at the Palace of Serbia after a working visit - Image
 

DDRの場で戦闘員や司令官が揃って吐露する心理

私が携わった紛争においても、戦闘員・部隊からの抵抗が強く、非常に苦労した経験がたくさんあります。

実際に合意通りに武装解除が行われ、機関銃やライフルなどが山高く積み上げられている風景を見て「Disarmamentが進んだ」と喜ぶのは、実は時期尚早であることが多く、これまで手掛けてきた紛争とDDRの現場では、所持している土に埋めたり、家屋の屋根裏に隠したりして、“いざというとき”のためにキープされていることがあります。

なかなかDDの検証をするのは困難で、戦後復興の本丸と言えるR(社会復帰)段階まで持って行くには、かなりの時間と労力を必要とします。

DDRに従事した際にいろいろな戦闘員や司令官と話す機会を得ましたが、口をそろえて言うのは「これまで命を懸けて戦ってきた相手を信用するのは非常に困難であり、こちらが武装解除・動員解除を行った途端、皆殺しにあうのではないかとの不安感と恐怖が存在する。そのような中で恐怖心に駆られた心理を和らげ、武装解除を実行することは非常に難しいだろう」という心理です。

日本にとっての1945年8月の状況は、大本営は海軍・陸軍それぞれの強硬派とまず戦わなくてはならず、政府・軍として降伏を決断したにもかかわらず、現場の戦争部隊がその命令に従わず、戦闘を継続することがないように、時間をかけて説得必要があったようです。8月22日ぐらいまではアジア一帯でまだ散発的な戦闘が繰り広げられ、政治・外交的には戦闘は終わっていたにも拘らず、15日からの1週間で命を落とした兵士が多々いるという記録も残っています。

軍部内の強硬派に対する説得は、その後の統治を考えると重要だったとはいえ、そもそも戦争を執行した大本営が責任を取れず、また内部からの反発と報復を恐れるあまり、対応が遅れて無駄に兵士の生命が失われたことに対しては、怒りを覚えます。

しかし、同様の状況は、1991年の湾岸戦争、2011年のアフガニスタン侵攻(Global War on Terror)の幕引き、イラク戦争などでも見られ、戦争の勝ち負けの別なく、戦争の執行を決定するリーダー層の足掻きと優柔不断の結果、無駄に罪なき生命が奪われるというケースが相次いでいます。

ここまで書いてみて思い出すのは、私が紛争調停官として初めて関わったコソボのケースであり、並行してお手伝いしたボスニアヘルツェゴビナにおけるDDRのケースです。

相互不信が極限まで高まり、猜疑心で溢れた社会において、なかなか社会復帰(re-integration)は進まず、先日まで殺しあった相手と共に未来を築くことを拒絶する人たちに直面しました。

それは最近、携わったエチオピア情勢(ティグレイ紛争)でも顕著にみられ、かつてティグレイ族の下で国が統治されていた時代の恨みを、今、繁栄党(Prosperity Party)の旗の下に集った多民族の勢力が果たそうとするあまり、“ティグレイ族憎し”の空気が広まり、ティグレイ族に対する集団リンチが横行した結果、目を覆うような凄惨な状況が作り出されました。

アメリカ、ロシア、中国、アフリカ連合諸国などが関わって停戦の協議と、その後のDDRの交渉・仲介を行いましたが、結果は芳しくないと言わざるを得ません。

融和と停戦には程遠く、このケースでも降伏と終戦の見込みは立ちません。

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