渋沢栄一の江戸期の憲法構想への評価
「日本資本主義の父」と言われ、この度、福沢諭吉に代わって1万円札の顔ともなる渋沢栄一は、百姓の出身ながら一橋慶喜の家臣に取り立てられ、維新後は大蔵省で働いた後、野に下って数々の事業を興したのだが、その忙しい間に編著『徳川慶喜伝』全8巻を編著している。渋沢によると……、
▼嘉永年間(1848~54)のペリー来航という危急の事態に直面し、老中首座の阿部正弘が広く天下に意見を求めたことが、「公議輿論を重んずる思想の嚆矢」となった。
▼そして開国がなり、欧米を見聞・留学する者も増えると、有識者の間に、日本にも議会制度を導入すべきだという認識が広まった。議会政治論を唱えた先駆者には、旗本の大久保忠寛(一翁)、越前藩政治顧問の横井小楠〔しょうなん〕、上田藩の赤松小三郎らがいた。
▼これら各方面の議会政治論の流れが、土佐藩の「政権奉還」構想につながった。これは時勢の気運が盛り上がってきた中での必然的な現象で、単なる欧州思想の模倣ではない。
渋沢は特に、赤松が徳川慶喜将軍、越前の松平春嶽、薩摩の島津久光に提出した「日本最初の民主的な憲法構想」と関が呼ぶ建白書を江戸期の「公議政体希求の思想」のクライマックスをなすものとして高く評価し、その内容を詳しく紹介している。松平と島津は、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城と共に「幕末の四賢侯」と呼ばれ、前将軍が始めた第2次長州征伐の失敗の穏便な後始末を通じての内戦勃発回避と、公武合体論による議会政治の実現を目指していた。
島津と山内は、赤松案を大名たちに都合のいいように薄めた修正案を作り、「薩土盟約」を結んで実現しようとしたものの、薩摩の内部で西郷隆盛や大久保利通らの「薩長同盟」による武力討幕論が力を増したため島津が日和見して盟約を反故にし、それでやむなく山内が単独で「大政奉還」を徳川慶喜に説いたということになっているが、この過程で、本来は「維新」の本流であったはずの公選議会開設と表裏ワンセットの公武合体論が、幕府の一方的屈服による「大政奉還」すなわち「王政復古」へとすり替わり、挙句の果てのやらずもがなの内戦による武力討幕へと流れ流れてしまった。
幕府内部や雄藩では盛んだった立憲政体論・議会開設案は長州や薩摩ではほとんど全く聞かれることがなかった。両藩の中・下級武士を中心とする志士たちは徳川体制の後にどんな国家・社会を築くのかに関心はなく、ただ尊皇攘夷路線の邪魔をする輩を暗殺するのに忙しかった。
日本最初の民主的憲法構想の起草者である赤松は、それだけでなく英国の騎兵術・歩兵術などを翻訳・紹介した洋式兵学の第一人者であり、その知識を評価されて薩摩藩の軍事教官をも務めていたというのに、公武合体論を説く「幕府の間者」であるという理由で薩摩のテロリスト=中村半次郎に斬殺されてしまう。維新の前からすでに「日本の近代」は脱線していたことを象徴する出来事である。
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