読み手が抱くワクワク感。なぜ文筆家は個人サイトの情報発信は“ランダム”の方がいいと考えるか

 

■個人とランダムさ

ではなぜ、個人サイトはランダムでいい(がいい)のでしょうか。

まず第一に、そうしたランダムさを受け止めてくれる媒体が個人サイトだからです。商業メディアでは許容されない程度の「散らかり具合」をがっしりと受け止めてくれる。それが情報表現者から見たときの、個人サイトの一番大きな意味かもしれません。

だから、個人サイトを運営するならば、最大限その魅力を享受して欲しい。その思いがファーストにあります。

そもそもとして、人間の興味なんて正確に系統立ててまとめられるものではないでしょう。

1ヶ月コーディングに夢中になったら、その次の月は熱帯魚のことを調べ出している。そんなことは珍しくありません。Obsidianのプラグインを研究している次の日に、カレーのレシピに夢中になっていることも日常茶飯事でしょう。

とは言え、人間の興味はカオスではありません。分散的に広がりながらも、一定の範囲(あるいは共通項)を持ちます。その興味に沿っていけば、自然に個人サイトはランダムになっていくものです。

■期待感

第二に、読み手としての面白さがあります。

心理学的に「期待感」や「ランダム強化」などを持ち出すのが手っ取り早いのかもしれませんが、もっと単純に考えて、「一定の範囲内に収まるだろうけども、しかし具体的にどんな記事が更新されるかは読んでみるまでわからない」というサイトを購読しているときほど、ワクワクすることはありません。

同一のテーマに絞って発信しているサイトは、「情報源」としてはたしかに有用ですが、「ワクワクする読み物」としては魅力不足なのです(常に予想通りになってしまうものは、あっという間に飽きるからです)。

仮に同一のテーマに絞っているサイトであっても、ちょこちょこ脱線した話題が出てくるならば、「ワクワク」感は醸成されます。そうしたサイトは「部分的にランダム」であると言えるのでしょう。

■立体感

期待感だけの話ではありません。第三に情報を立体的に受け取れる、という面白さもあります。

たとえば、まじめな人文書を紹介している人が、ふと普段やっているゲームについて書く。それだけで受け取れるものの幅がぐっと広がります。ある人がAというものを見つめる視点と、Bというものを見つめる視線。その角度の違う視点を両方受け取ることで、その視点を見つめる私の視点も幅が広がっていくのです。

連続的な情報発信は、一つの「文脈」を形成するわけですが、多様な方面に伸びた情報発信は文脈を複線化する働きがあります。

何かがランダムに発信される。その一つひとつの情報が文脈を形成するとともに、何がどんな頻度でランダムで出てくるのかというメタな情報もまた大きな文脈を形成します。

そのようにして私たちは、その人の「ひととなり」というものを(ごくわずかではありますが)覗き込むことができます。

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