逆に言えば、ある程度慣れた人にとっては、ぴったりくっつかれるのは不自由でしかない。つまり、親切レベルの調節が必要ということである。
相手が未熟であれば、きちんと支えて教えてあげる必要がある。がんばればできることであれば、適度に手放していく必要がある。いつまでもくっついてあげていては、成長がない。
(更に言えば、がんばってもできないことはできない。例えば、一般的な小学生にバスケのダンクシュートを教えて練習させる意味はない。身体的に考えて、どうやっても届かないからである。)
例えるなら、運動会の表現指導である。最初はパート毎に動きを丁寧に教えて真似させる。そして前に立ち、鏡の動きで踊ってあげる。
しかし、これをずっとやり続けていてはいけない。ただ真似するだけで、いつまで経っても覚えない。(最もひどい場合だと、本番でも教師が朝礼台ならぬ「お立ち台」上で踊っている。主客転倒かつ本末転倒である。)
自分で踊れるようにするのである。お手本から離れて、自分なりの表現にできたら最高である。
ダイビングの話に戻すと、まずは安全・安心に楽しむ体験をすること。次に、自分でやれるような簡単な場で練習すること。本人が求めるなら、資格をとって自分で自由に動き回ればいい。(更にレベルが上がれば、人に教える立場になる。)
教育のとるべきステップと同じである。
今は「自由」に価値が置かれ過ぎて、きちんと教えるという行為の地位が低い。これは、よくよく考えた方がよい。まずはきちんと教えてくれる人がいてこそ、教育は成立するのである。(そうでなければただの放置・放任である。)愛情のような抽象的なものさえ、まずは周囲に教えられてこそ覚えるものである。
相手のレベルに応じていることである。一年生初期の初めて尽くしの段階と、六年生が同じはずがない。また、同じ学年内でも4月と10月が同じはずがない。それが好きで得意な人と、そうでない人が同じはずがない。
『不親切教師のススメ』で書いたように、手をかけすぎはダメだが、放置しすぎもダメである。
「自由」の理想の旗を高く掲げ、それを名目に適切な指導・必要な指導を放棄していないか。そのレベルに応じた適切な指導、あるいは支援を考えることが大切である。
image by Shutterstock.com









